今日七月七日は七夕。ほぼ全国的にあいにくの空模様のようで、今年は逢えそうにない織姫と彦星。
 ともあれ前記事に続いて七夕にまつわる神社をもうひとつ。

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◆棚機神社 鳥居と神木
棚機神社 鳥居と神木

棚機神社
【たなばたじんじゃ】


鎮座地: 奈良県葛城市太田七夕1371

御祭神:
天棚機姫神【あめのたなばたひめ】
(天羽雷命【あめのはづち】?)

創建: 不詳

延喜式神名帳: 大和国葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大 月次新嘗


 奈良県道三〇号線(御所香芝線)から南阪奈道路の側道を大阪方面に少し上ると、耕作地の傍らにこんもりと木の繁った場所があり、一際背の高い木の前に質素な木製の鳥居が建っている。鳥居には「棚機宮」とある。ここが棚機神社で間違いないようだ。
 神社といっても社殿と称べるものは無く、小さな石の祠と灯籠が数基並ぶのみ。いずれもそれほど古い物には見えない。
 八月だったが、笹飾りのわずかな痕跡が七夕祭の名残をとどめていた。
 ここは棚機の森と称ばれる場所で、神社が鎮座する辺りは小字名を「七夕」というらしい。神社の右側が小高くなっている。古墳だそうだ。

◆棚機神社 石祠
棚機神社 石祠

 この地もまた、河内の交野と同じく七夕儀礼発祥の地といわれる。
 葛城の地は渡来系氏族がもたらした技術により、早くから織物や染色の文化が発展した。當麻寺を中心に語られる、蓮の糸で當麻曼荼羅を織り上げた中将姫の伝説もその土壌の上に生まれたものだろう。

 棚機神社の前身は「葛木倭文坐天羽雷命神社」であったという伝承がある。葛下郡式内社十八座のうちのひとつである。
 現在、葛木倭文坐天羽雷命神社には葛城市加守にある同名社を比定するのが定説となっているが、『神祇志料』は「今上太田村志登梨【しどり】にあり、棚機森と云」としている。
『當麻町史』は上太田字志登梨の棚機の森にかつて葛木倭文坐天羽雷命神社があったが、寺口の博西神社に遷座したという口碑を紹介している。加守の倭文社はそれをさらに遷したものともいわれる、とする。
 志登梨というのがどの辺りなのかはわからないが、棚機神社の鎮座地は字七夕とされるからこの場所ではないはずである。一説にかつての棚機神社は今よりも奥にあった(山が崩れたため現在地に遷った)ともいうから、そこが志登梨なのだろうか。
 また『新庄町史』も、棚機の森に祀られていた天羽雷命が布施地域の国人領主である布施氏によって博西神社に遷されたという伝承を記す。博西神社の鎮座地は字倭文山【しどりやま】であり、同社を「葛木倭文大明神」と記した江戸時代の文書も存在する。博西神社の現在の祭神は下照比売命であるが、明治初年の調査の際に天羽雷を下照姫と「誤った」という。加守の倭文社を式内社とするために政治的な力が働いたとも受け取れそうな書き方だ。真相はわからないが、いずれにせよ明治の式内社比定には相当乱暴な一面があったことは確かである。

◆博西神社〔葛城市寺口〕
博西神社

◆葛木倭文坐天羽雷命神社〔葛城市加守〕
葛木倭文坐天羽雷命神社

 住吉大社の由緒を記した『住吉神社神代記』に「陁那波多乃男神女神」なる記述がある。住吉の広大な神領の及ぶ範囲を記す中に出てくるのだが、これが棚機神社を指すものだとすれば、やはり元は男女の神を祀る社だったのだろう。
 人間の都合により神はあちこちへ引っ越したり名前を変えられたりと流転が絶えないものだ。天の川に分断された牽牛と織女のように、男神天羽雷命は棚機の森から離れてしまったが、女神天棚機姫はその帰りを今も待っているのではないだろうか。


参考文献:
◇津守嶋麿・津守客人『住吉神社神代記』 西尾市岩瀬文庫所蔵 1884
◇栗田寛『神祇志料』 温故堂 1887
◇新庄町史編集委員会(編)『新庄町史』 新庄町役場 1967
◇當麻町史編集委員会(編)『當麻町史』 當麻町教育委員会 1976
◇改訂新庄町史編集委員会(編)『改訂新庄町史』 新庄町役場 1984


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