屋敷山


 奈良県葛城市南部、旧新庄町にある屋敷山古墳は全長百三十五メートルの前方後円墳で、中世にはこの地の豪族布施氏によって墳丘を利用して城が築かれた。布施氏は屋敷山の二キロメートルほど西の山中にあった布施城を本城としたが、屋敷山の城は平時の居館として建てられたものという。それで「新城」と称ばれたのが新庄という地名の由来らしい。関ケ原合戦後には桑山一晴が布施藩(のち新庄藩)の藩主としてこの地に入部、屋敷山に陣屋を構えた。現在は屋敷山公園として整備されている。
 その屋敷山の裏側にあたる西南の方向に、こじんまりとした神社があるのを知る人は多くないだろう。鳥居の扁額には「金村神社」とある。樫や楠の巨樹に蔽われて、小さいながらも存在感を放っている。

金村神社

金村神社



金村神社
【かなむらじんじゃ】
鎮座地奈良県葛城市大屋金村213
包括神社本庁
御祭神大伴金村公【おおとものかなむらこう】
創建安閑天皇二年(AD535)
延喜式神名帳大和國葛下郡 金村神社 大 月次新嘗
社格等旧村社


 境内は石垣が築かれて一段高くなっている。石の鳥居は近年新調されたらしく真新しい。数年前に訪れた時にはまだ古い鳥居で、扁額もなかったように思う。

金村神社 鳥居

金村神社 鳥居



 鳥居をくぐると左手に境内社が二社並んでいる。手前が市杵島姫命いちきしまひめのみことを祀る厳島神社、奥が保食神うけもちのかみの稲荷神社。

金村神社 末社二社

金村神社 末社二社



金村神社 末社厳島神社

金村神社 末社厳島神社



金村神社 末社稲荷神社

金村神社 末社稲荷神社



 二社を過ぎると左右に燈籠が立ち、その先はもう一段高くなって短い石段が設けられている。
 そこにブロック塀に囲まれて小さな社殿が祀られている。

金村神社 本殿

金村神社 本殿



金村神社 本殿

金村神社 本殿




大伴金村


 金村神社は延喜式神名帳に大社として記されている同名社に比定されている。実際、この辺りの小字名は「金村」というそうだし、他に論社もないので事実として良いように思う。
 正史に初めてあらわれるのは『三代実録』貞観元年(859)正月廿七日甲申条の「金村神」を従五位上に叙すとある記述。
 祭神は大伴金村おおとものかなむらとされている。大伴氏は大和王権において物部氏とともに軍事を司った有力氏族で、大伴談おおとものかたりの子金村の時代がその全盛期にあたる。
 金村は、仁賢天皇崩御後に国政の実権を握った平群真鳥へぐりのまとりとその子しびを討って武烈天皇を即位させ、その功により大連おおむらじに任じられた。武烈帝が没すると越前にいた皇統傍系の継体天皇を擁立して帝の地位に据えた。まさにキングメイカーだ。以後安閑・宣化・欽明と五代にわたって権勢を揮うが、物部尾輿もののべのおこしらとの政争に敗れて失脚、邸宅のあった摂津国住吉で生涯を終えたという。
 なお、社伝では安閑天皇二年(535)十一月十二日の勧請としているが、この時はまだ金村存命中であるはずで、神として祀るというのはあり得ない。

 金村神社の祭神について、江戸中期の度会延経『神名帳考証』は「大伴金村連 談連之子 其先高魂命たかみむすびのみこと自リ出ズ」と金村の名を挙げているが、これに疑問を呈する後世の書も多い。
 すなわち、『神社覈録』は「祭神詳ならず」、『特選神名牒』は「今按明細帳には従神高皇産霊神たかみむすびのかみ大屋彦命おおやびこのみこととし注進状には大伴金村とす 何れも推考の説にしてとりがたし 姑く附て後考をまつ」、『大和志料』は「祭神詳カナラズ、今大伴金村連ヲ祭ルモ拠ナシ」といった具合だ。
 この地と、大伴氏や大伴金村、あるいはそれに連なる氏族を結びつける記録や伝承もない。
 金村神社という名の神社が少なくとも九世紀から存在していたことは間違いないが、その祀る神については不詳とするのが妥当だろう。


古代寺院の面影


 大正四年(1915)の神社明細帳によると、往古の金村神社は近郷数十ヶ村の総氏神として崇敬され、その境内もまた八丁(およそ八百七十メートル)四方に及ぶ広大なものだったらしい。しかし応永年間(1394~1428)に布施氏が氏地の多くを博西はかにし神社に属させ、金村神社はわずかに大屋村のみを鎮守するに到ったという。
 金村神社の前を東に向かって流れる川は御手洗川と称し、その水を清祓などに用いたために上流においても不浄の行為を避ける習慣があるのは、往時の崇敬の篤さを物語るものだとする。
 そして金村神社のかつての一ノ鳥居は忍海村大字脇田字森にあり、その沓石が残存すると記している。



 大正四年当時実際にこのような伝承が残っていたのか、それとも由緒を過大に見せるための粉飾だったのかはわからないものの、現在の葛城市脇田には明細帳のいう「一ノ鳥居の沓石」にあたるものが確かにある。ただしそれは金村神社の鳥居の痕跡などではない。

 屋敷山公園から県道三〇号御所香芝線を二キロメートル弱南下し「脇田」交差点を東に曲がると、程なく北側に脇田神社が見えてくる。鳥居をくぐってすぐ右手に、中央に丸い窪みの穿たれた、直径二メートルはある巨大な石が地面から顔を出している。

脇田神社

脇田神社



脇田神社 地光寺東塔心礎

脇田神社 地光寺東塔心礎



 これはこの地に薬師寺式伽藍を構えた古代寺院地光寺の東塔の中心礎石とみられている。西塔の心礎は脇田神社西隣の田地内にあるようだが未確認。
 地光寺は鍛冶技術を携えて新羅から渡来した忍海おしぬみ氏の氏寺だったとされる。付近からは鉄滓や鞴羽口ふいごはぐちなど、製鉄の業をもってこの一帯に盤踞した彼らの遺物が出土している。

 この事実を踏まえたとき、金村神社の名が新たな意味を帯びてくるようにも思える。
 すなわち、その名の「金」は金属を表し、本来は鍛冶氏族に関連する神を祀る社だったのではないかと。
 門外漢のたわ言に過ぎないが、そんなことを自由に想像するのも素人の特権とご容赦願いたい。自分では案外的外れでもないと考えていたりするのだけれども。

金村神社

金村神社



参考文献:
◇度会延経『神名帳考証』 松岡雄淵書写(西尾市岩瀬文庫所蔵) 1760
◇『大和国葛下郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1879
◇経済雑誌社(編)『国史大系 第四巻 日本三代実録』 経済雑誌社 1897
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録 上編』 皇典講究所 1902
◇奈良県(編)『大和志料 下巻』 奈良県教育会 1915
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第二巻 京・畿内 2』 皇學館大学出版部 1982



大きな地図で表示


このエントリーをはてなブックマークに追加