叛乱 La ribellione

かからむと
かねて知りせば大御船
泊てし泊りに標結はましを 額田王

 天智天皇十年(671)十二月三日、天智天皇は近江大津宮にて崩御した。
 こうなるとわかっていたなら、大君の御船が停泊する港に標縄を張って旅立たれないようにしたものを――。
 額田王はこう詠って天皇への哀惜の思いを表現した。

 崩御に先立つ十月、天智は大海人皇子を病床に召し、後事を託した。大海人はそれを辞し、天智皇后倭姫王やまとひめのおおきみの即位と大友皇子を摂政とすることを薦めて、自らは剃髪して大和の吉野へ退去していた。暗殺を警戒してのことだった。天智が大友を後継者とするつもりであれば、大海人は邪魔になる。兄の申し出を素直に受ければ自分の命が危ういと判断したのだった。吉野へ向かう大海人一行を見送りながら、ある人は「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と呟いたという。
 虎はただ眠っていたわけでは勿論なかった。かつて、皇極天皇退位に伴う皇位継承を断って吉野にこもった古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ(倭姫王の父)を謀叛の疑いをかけて殺したのは他ならぬ兄・天智だ。全く同じ境遇にある自分もまた殺される可能性を当然考え、それに備えただろう。そして来るべき時――自らが起つ時のために密かに準備を進めていたはずだ。
 しかして、その時は来た。

 天智天皇崩御の半年後、大海人皇子は吉野を脱出し、伊賀や伊勢で兵を集めながら美濃へ向かった。鈴鹿山道・不破道を制圧して近江朝側の東国への連絡路を断ち、美濃以東の兵をも掌握、近江の大友皇子軍と対峙した。
 一方飛鳥では大海人に呼応して大伴吹負【おおとものふけい】が挙兵、亡命百済人の徴用に反発していた古くからの渡来系氏族の協力もあり、飛鳥の制圧に成功する。吹負は大和の諸豪族を結集して近江を目指す。大海人本隊とともに大友軍を挟撃する手筈だったのだろう。しかし飛鳥を奪還すべく東進してきた近江朝側の河内の大軍との激戦となった。苦戦するものの、美濃からの援軍を得て大和を守りきる。
 近江朝方は近江での戦線膠着打開のため、鹿深山を越えて大海人方の伊賀方面軍を急襲。最初の夜襲は成功するが、多品治【おおのほんじ】率いる部隊の追撃を受けて敗走した。
 そしてついに近江の息長横河で両軍主力が戦端を開き、大海人軍が大勝する。大海人軍は大津に向けて進撃を続け、瀬田橋での最終戦で近江朝軍は潰滅。さらに琵琶湖を北側から回り込んだ大海人軍の別働隊が三尾城を陥としたことで大友方の北陸方面への退路が断たれた。
 大友皇子は僅かな供廻りを引き連れて西へ逃走するが、畿内は既に大伴吹負らが掌握していた。大友皇子は山城国大山崎で首を縊って自害した。
 こうして壬申の乱は終幕した。

 戦後、大海人皇子は都を大津から飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮を造営した。翌天武天皇二年(673)二月に即位、天武天皇となる。
 大津の都は五年余りの歴史を閉じた。

◆近江神宮 内拝殿
近江神宮 内拝殿


廃都 La rovina

ささなみの
志賀の大わだよどむとも
昔の人にまたも逢はめやも 柿本人麻呂

 持統天皇三年(689)頃というから大津京が廃都となって十数年後、近江を訪れた柿本人麻呂【かきのもとのひとまろ】はこの歌を詠んでありし日を偲んだ。
 志賀の入り江は淀んで昔のままに水をたたえているが、かつてここに生きていた都人たちに再び逢うことはもうできない――。
 打ち捨てられた志賀大津の都は、たった十数年で既に廃墟となっていた。
 そしていつしか、どこにあったかも忘れ去られた。

 昭和四十九年(1974)十月のある日の夕刻、滋賀県文化財保護課の技師であった林博通氏は帰宅の途にあった。近江神宮の杜を抜けて大津市錦織字御所ノ内付近の住宅地を歩いていると、ユンボの置かれた工事現場を目にする。古い家屋を取り壊し、翌朝から住宅の新築工事に入るところだった。
 彼は土地所有者のもとにとんでいき、工事中止と発掘調査実施を懇願した。実はこの御所ノ内は大津宮所在地の候補のひとつだったが、住宅地であるためこれまで発掘調査は全くされていなかったのだ。彼はかねてよりこの地区を調査する必要性を感じていた。
 突然の申し出に土地所有者は戸惑うが、やがて彼の熱意が伝わり、調査を承諾した。彼は後で知るのだが、土地所有者との間には二つの奇妙な縁があり、それも承諾の一因になったようだ。
 手続きを済ませ調査に入ると果たして、方形の柱穴が見つかる。全面発掘の結果、合計十三基の柱穴が発見された。近江大津宮の門と回廊の址だった。幻だった大津宮の遺構が千三百年振りに姿を現したのである。
 このドラマティックないきさつを林氏は著書『幻の都 大津京を掘る』の冒頭に記し、「私と大津宮との出会いは、何か偶然では割りきれない不思議な結び付きが感じられるのである」と感慨深く語っている。

◆近江神宮 楼門
近江神宮 楼門


 今回資料をあたって、壬申の乱の面白さに圧倒された。今まで何となくは知っていたものの、これほどまでに面白いとは思ってもみなかった。大海人皇子と額田王の娘にして大友皇子の妃である十市皇女の、大海人と大友の板挟みになった葛藤など、書ききれなかったこともまだまだある。
 近江神宮を再訪して、清清しい空気の中で遥かな古代に想いを馳せたい気持ちに今、駆られている。


参考文献:
◇鴻巣盛広『万葉集全釈 第一冊』 広文堂書店 1930
◇林博通『幻の都 大津京を掘る』 学生社 2005
◇倉本一宏『戦争の日本史2 壬申の乱』 吉川弘文館 2007
◇木下正史/佐藤信(編)『古代の都1 飛鳥から藤原京へ』 吉川弘文館 2010


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