栂の天神社
延喜式内社にして和泉国大鳥郡上神谷上条の総鎮守櫻井神社の社殿前に、立派な石碑が建てられている。碑には櫻井神社を含め三つの式内社の名とその祀る神が刻まれている。明治の終わり、近隣にある十の神社が櫻井神社に合祀されたが、そのうちの二社は式内社で、それぞれ櫻井神社本殿の左右に境内社として祀られた。本殿の向かって右が鉢ヶ峯寺村にあった國神社、そして左に建つのが栂村鎮守山井神社。
櫻井神社末社 山井神社 【やまのいじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府堺市南区片蔵桜井645 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 美豆波乃女命【みずはのめのみこと】 |
創建 | 不詳 |
延喜式神名帳 | 和泉國大鳥郡 山井神社 鍬靫 |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 天神社 |
栂村(現堺市南区栂)の字奥井戸にあった山井神社は、江戸時代まで俗に「天神」と称ばれていた。傍らに「山井」と称する清泉があり、「天神の松」という古い松の大樹が枝を広げて神域の過半を覆っていたという。また山井寺という神宮寺があった。
元禄四年(1691)の寺社改帳によると山井寺は真言宗鉢峯山佛後院の末寺で境内は四百五十坪、天神社(山井神社)境内は二百二十四坪で、釜室村(現堺市南区釜室)の吉左衛門なる者が神主を務めていた。
『和泉国内神名帳』に「従五位上山井社」とある。明治五年(1872)村社に列格。
明治十二年(1879)の神社明細帳には境内二百八十六坪、氏子五十人、本殿桁行四尺梁行一間と記されている。桁行六間梁行二間の拝殿が同二十七年(1894)に新築された。
明治四十三年(1910)一月二十八日、神社合祀令に基づき櫻井神社境内に移転となった。
天神の松は昭和九年(1934)の室戸台風で倒れてしまったという。
旧鎮座地
櫻井神社への合祀以前、山井神社はどこにあったのだろうか。昭和五十二年(1977)刊行の『式内社調査報告』によれば、旧社地には近年まで松の大樹と小祠が残っていたが、松は切り倒され祠も取り払われて、跡地に栂老人会館が建っているという。建物の北側にある「知恩石」が往時を偲ぶ唯一の痕跡だとし、一枚の写真が載せられている。写真には老人会館と思しき建物と、その脇にいくつかの石造物、そして新たに植えられたものか若い松の樹が写る。建物の背後は斜面になっていて、その上に建つ集合住宅(団地)も写り込んでいる。
この四十年前の手掛かりを頼りに地図を辿る。推定される大まかな位置から、写真背景の団地は栂の西に接する泉北ニュータウン原山台のそれと判断できる。地図上で栂と原山台の境界付近を注意深く見ていくと、老人会館は見つからなかったが、「栂敬人会館」の文字が目に入った。団地との位置関係も写真と一致するように思える。ネット上では「栂自治会館」付近が旧社地だとの情報もあるが、写真の状況と一致しないので違うと判断した。
早速栂敬人会館を訪ねる。櫻井神社からは西へおよそ八百メートルの位置にあたる。
集落の細い路地を歩き、家屋が途切れたところを左へ。そこは広場になっていて、敷地の西側に敬人会館の建物。その背後は斜面、そして団地。やはり間違いないようだ。ここが字奥井戸、山井神社の旧鎮座地だろう。
石造物群は敷地の東側にあった。『式内社調査報告』の写真とは場所が違っている。移転したようだ。
中央にあるのが知恩石らしい。確かに側面に「知恩石」と彫ってある。正面には「釋教壽居士」「嘉永二年己酉三月□□日」などとあって、どうやら墓碑のようだ。左右にあるのは墓碑や石仏。
これらの石造物がどのような由縁のものなのかはわからない。山井寺に関連するものなのだろうか。そこかしこにあったものをこういう場所に集めるのはよくあることなので、山井神社や山井寺とは直接関係のないものもあるかもしれない。
ここに山井神社があったことを示す遺物は皆無と言える上に、ニュータウンの宅地造成によって地形も大きく変わっており、面影すら残っていないと思われる。「山井」の名から想起する山間の井泉の神を奉斎する神社のイメージに反して、敬人会館の敷地は現在完全な平地になっている。しかし、この辺りがかつて丘陵であったことは古い地図で確認できる。
水の女神ミツハノメ
現在の山井神社祭神は水神である美豆波乃女命だが、山井という社名と清泉の存在から推量した説のようだ。『和泉国式神私考』では天八井水神とし、度会延経『神名帳考証』は美都波乃女神としているが、その他の資料は祭神不詳とするか、祭神自体に触れていない。明治初年の調査の際には、天神と称していたことから祭神を菅原道真と届け出たという(『大阪府史蹟名勝天然記念物』)。
なお『神名帳考証』と『神社覈録』は、神武天皇が長髄彦に一旦敗れて退却後に再上陸した茅淳山城水門(別名山井水門)との関連の可能性を示唆しているが、『神社覈録』もいうように、山城水門は日根郡樽井(現泉南市樽井)に比定されており、直接の関連は考えにくい。
ミツハノメ(ミズハノメ)は水を司る女神で、『古事記』では弥都波能売神、『日本書紀』では罔象女神として登場する。「ミツハ(ミズハ)」は「水走」「水這」と解して耕地に引く灌漑用水を表すとも、「水早」「水端」で水の出始めを意味するともいわれる。
『日本書紀』の「罔象」は一見して「ミツハ」とは訓めないが、これは古代中国の文献にある水の精霊の名を当てたものだ。
『周礼』の「秋官司寇下壺涿氏」に「若欲殺其神 則以牡橭午貫象歯而沈之 則其神死 淵為陵」(もしその神を殺したいなら、楡の木と象牙で作った呪物で沈めれば死ぬ)という一節があり、鄭玄による注に「神謂水神龍罔象」(神とは水神の龍・罔象をいう)とある。
『国語』の「魯語下」には「木石之怪曰夔罔両 水之怪曰龍罔象」(木石の怪を夔・罔両といい、水の怪を龍・罔象という)とある。韋昭は「龍神獣也 或曰罔象 食人」(龍は神獣である。罔象ともいう。人を食らう)と注する。
また『淮南子』の「氾論訓」に「水生罔象」(水は罔象を生ずる)とある。高誘の注は「罔象水之精也」(罔象は水の精である)とする。
『白沢図』には「水之精名曰罔象 其状如小児 赤目黒色 大耳長爪 以縛索之則可得 烹之吉」(水の精は名を罔象という。その姿は小さな子供のようで、目は赤く色は黒く、大きな耳と長い爪を持つ。縄で縛れば捕らえることができる。煮て食べれば吉)と出てくる。
罔象は、龍とともに水神・水精・水怪を表す名であることがわかる。
「罔」は「亡」「無」に通じることから、「罔象」は「象」つまり「すがた」「かたち」が無いもの、実体を持たないものを意味するともいう。『春秋左伝』の「宣公三年伝」正義に引用する「魯語」の賈逵注は、「罔両罔象言有夔龍之形而無実体 然則罔両罔象皆是虚無 当総彼之意非神名也」(罔両・罔象は木石の怪である夔や水の怪である龍が実体を持たないことを言っているのであって、神名ではない)としている。
ミツハノメとともに記紀に登場する水神にオカミがある。『古事記』では淤加美、『日本書紀』では龗と表記する。『日本書紀』が龍に通じる「龗」の字をオカミに当て、ミツハに「罔象」の字を当てたのは中国古典の影響であることは明らかだが、その使い分けには明確な意図が見てとれる。つまり、ともに水神であるオカミとミツハのそれぞれの神格が異なることを意識しての使い分けであったと思われる。
オカミは一般に雨を司る神、雨乞いの神と認識されている。闇龗神と高龗神があって、「闇」は谷あい、「高」は山峰を指し、それぞれ谷に棲む龍神、山上に棲む龍神であるとされる。水源を司り、さらにはその源である雨を司る水神としての性格を持つ。
一方でミツハノメは灌漑用水や井戸の神として祀られることが多い。人間の生活用水を司る神という言い方ができそうだ。闇御津羽神はいるが、高ミツハの名が見えないのは、人間の生活圏に近いところに棲む神という認識があったことの表れではなかろうか。
参考文献:
◇度会延経『神名帳考証』 松岡雄淵書写(西尾市岩瀬文庫所蔵) 1760
◇栗田寛『神祇志料 巻之十』 温故堂 1886
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録 上編』 皇典講究所 1902
◇伴信友「神名帳考証」『伴信友全集 第一』 国書刊行会 1907
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇太田亮『和泉』(日本国誌資料叢書) 磯部甲陽堂 1925
◇大阪府学務部(編)『大阪府史蹟名勝天然記念物 第四冊』 大阪府学務部 1929
◇蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第十八巻 五畿内志・泉州志』 雄山閣 1929
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第五巻 京・畿内 5』 皇學館大学出版部 1977
◇永野仁(編)『日本名所風俗図会11 近畿の巻I』 角川書店 1981
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇荒川紘『龍の起源』 紀伊国屋書店 1996
◇川口謙二(編著)『日本の神様読み解き事典』 柏書房 1999
◇佐々木聡『復元 白沢図 古代中国の妖怪と辟邪文化』 白澤社 2017
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