広野新田
永井信濃守尚政が山城淀十万石の藩主として淀城に入ったのは大御所徳川秀忠の死の翌年、寛永十年(1633)のこと。尚政は十六歳で秀忠の小姓となって以来秀忠の側近として仕え、老中まで務めた。同じく老中井上正就・京都所司代板倉重宗と共に秀忠近侍三臣と称された。三代将軍家光にとって尚政の淀藩入部は、京・大坂の治安を守るのみならず、西国諸大名へ睨みを利かせる意味においても重要だったものと思われる。
尚政は城下町整備や木津川の治水工事等の領内振興政策を積極的に実施した。慶安二年(1649)には広野新田の開発に着手、大久保村の他宇治郷や白川村等から住民が移住した。前年に尚政が復興した道元禅師開創の名刹曹洞宗興聖寺(宇治市宇治山田)の末寺として少林山圓蔵院を置き、新田の菩提寺とした。圓蔵院はもと槇島村(現宇治市槙島町)にあったもので、その寺籍を移し、興聖寺住職萬安英種和尚の弟子三峯長老が入って本山後見職の寺に定められた。
明暦二年(1656)には広野新田の鎮守社として神明宮が建てられたが、その支配も圓蔵院が担った。
明治の神仏分離によって神明宮は圓蔵院から切り離され、村方三役に任されることになった。それが現在の皇大神宮社だ。
皇大神宮社 【こうたいじんぐうしゃ】 | |
---|---|
鎮座地 | 京都府宇治市広野町東裏106 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 天照大神【あまてらすおおみかみ】 |
創建 | 明暦二年(AD1656) |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 広野神社 神明宮 |
神域
東西に細長い社地。南は川、北にはマンションが隣接して建ち、東側の本殿背後にJR奈良線が走る。かつて本殿は線路よりも東にあったが、明治二十九年(1896)の鉄道(当時は私鉄奈良鉄道)開通に伴って西に移動したらしい。
昭和三十六年(1961)の第二室戸台風で社殿が倒壊したが、同三十八年(1963)十二月再建。
神明鳥居をくぐる。
まっすぐのびる参道の左右には二対の燈籠。左手に手水舎があり、その向こうに割拝殿。
拝殿を抜けると燈籠と狛犬があり、瓦屋根の門と塀に囲われた中に本殿が鎮座している。
本殿の向かって左から背後にかけて、本殿を囲むように末社と伊勢神宮遥拝所が並ぶ。
左手前の覆屋の中に三社。中央に春日社、向かって右が住吉社、左が天満宮。
その奥の覆屋には豊受神宮の社殿。
本殿背後に伊勢神宮遥拝所、「水の神 瀧長明神」という木札のある瀧長社、そして朱の鳥居が設えられ「稲荷山 末廣明神」の木札と「稲荷大神」の扁額が掲げられた稲荷社。
宇治屋の辻
皇大神宮社が面する南北の通りは豊臣秀吉が新たに開いた大和街道で、広野新田はその大和街道と古い奈良街道の合流地点にあたった。神社の三百メートル北の交差点がそれで、道標が今も立っている(現在あるのはレプリカで、本物は広野公民館に移されている)。ここにあった旅籠の名から「宇治屋の辻」と称ばれた。大和街道に沿って南北に細長く街が形成され、広野は同街道の宿駅的な役割を果たしていた。耕地は宅地の背後に東西方向の短冊形を成して並んでいたという。
街道沿いには古い商家風の建物が所どころに残り、往時を偲ばせる。
参考文献:
◇京都府神職会(編)『京都府神社略記』 京都府神職会本部 1936
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典26 京都府 上巻』 角川書店 1982
大きな地図で表示
Commenti / コメント
コメントする