櫻井神社参詣道
鉢ヶ峯の堺公園墓地から続く道を北へ辿り、丘陵を切り開いて貫く府道二〇八号(堺泉北環状線)を跨ぐ橋を渡って坂を下る。「きつね坂」というらしい。間もなく「櫻井神社」「上神郷総鎮守」と刻まれた一対の石柱が現れる。ここから先は櫻井神社の神門に向かって道が真っ直ぐにのびている。神門前を横切る道ができて分断されてしまったが、この直線道はかつて櫻井神社の馬場だった。
櫻井神社 【さくらいじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府堺市南区片蔵桜井645 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 誉田別命【ほむたわけのみこと】(應神天皇)(中殿) 足仲彦命【たらしなかつひこのみこと】(仲哀天皇)(東殿) 息長帯比売命【おきながたらしひめのみこと】(神功皇后)(西殿) |
創建 | 不詳 |
延喜式神名帳 | 和泉國大鳥郡 櫻井神社 |
社格等 | 旧府社 |
別称/旧称 | 上神谷八幡宮 別宮八幡宮社 櫻井正八幡宮 |
上神谷の八幡さん
櫻井神社は上神谷上条九ヶ村のうち鉢ヶ峯寺村を除く片蔵・豊田・栂・田中・釜室・富蔵・畑・逆瀬川の惣社であり、延喜式神名帳にも記された往古より鎮座する名社。この地に住んだ桜井朝臣が祖神として武内宿禰を祀ったのが始まりと伝える。
上神谷八幡宮とも称するのは、推古天皇五年(597)八月八日、西北の空から八幡神が櫻井神社の杜に示現、郷民はこれを喜び、神祠を建てて八幡神を併せ祀ったことによる。神が降臨したとされる石が瑞垣内の本殿向かって右の傍らにある。
また本殿の左には亀塚なるものがある。福塚とも称ぶ。八幡神降臨後に亀乙と名乗る老翁が忽然と現れ、三体の神像を刻むとまた姿を消した。その場所を土で封じたものという。元は境外西方にあったものを移したらしい。透塀の向こうなのでつぶさには判らないものの、陶製だろうか、亀らしき形をした物が塚の上に置かれている。
かつて存在した宮寺の名、亀遊山神宮寺はこの伝承に因んだもの。なお神宮寺は明治の神仏分離で廃寺となり、仏像や仏具は片蔵の金福寺へ、天正十六年(1588)に加藤清正の発願で再建された阿弥陀堂は別所の法華寺へ移された。
中世以降武家の尊崇を受け、隆盛を極めた。
南北朝時代にはこの地域は南朝に属し、上神・和田・桜井氏ら南朝方の武将が御供田を寄進するなど櫻井神社の保護・興隆に勤めた。宮座「中村結鎮座」は南北朝期に構成されたとみられ、『中村結鎮御頭次第』二巻は正平六年(1351)から明治に至るまでの宮座頭役を記録した貴重な史料。
しかし、広大な神域と壮麗な社殿を誇った櫻井神社は、天正五年(1577)織田信長の根来征伐で罹災し、さらに豊臣秀吉によって神領を没収されて社勢衰微する。
建造物のほとんどが失われた中で唯一残ったのが拝殿で、鎌倉建築の特色をよく表すものとして国宝に指定されている。屋根は勾配の緩い切妻造本瓦葺、中央に土間の馬道を設けた割拝殿。建武四年(1337)に上神城主上神常儀が社殿を造営したという記録が残っているから、拝殿もこの時の建立だろう。
その後、社殿・堂舎は逐次再建されていく。
前述のように天正十六年(1588)阿弥陀堂が八幡宮奥之院として建立される。元禄十五年(1702)四脚門(神門)を再建、享保十六年(1731)には鐘楼と宝蔵を再建している。鐘楼は神輿庫に改造され現存する。
神仏習合時代には仏教色が濃かったことが窺えるが、維新により神宮寺は廃絶、櫻井神社は純然たる神社として明治五年(1872)郷社に列した。天正以来仮殿のままだった本殿は同十四年(1881)新たに造営された。
昭和三年(1928)拝殿の解体修理、同六年(1931)には中門・透塀の新築と境内整備が進められ、昭和十七年(1942)一月四日に府社へと昇格した。
合祀社と現在の境内社
明治四十一年(1908)から四十三年(1910)にかけて以下の十社が櫻井神社に合祀される。《櫻井神社合祀社》
- 大字片蔵字江栗東 村社 菅原神社(菅原道真公)
- 大字逆瀬川字宮谷 村社 神明神社(天照大神)
- 大字逆瀬川字奥脇 村社 玉桂屋神社(玉桂姫命)
- 大字富蔵字妙見原 村社 稲荷神社(保食神)
- 大字畑字引の上 村社 市杵島神社(市杵島姫命)
- 大字豊田字八坂 無格社 八坂神社(須佐之男命)
- 大字田中字岡田 村社 菅原神社(菅原道真公)
- 大字畑字勘田 村社 八幡神社(誉田別命)
- 大字栂字奥井戸 村社 山井神社(美豆波乃女命)
- 大字鉢ヶ峯寺 村社 國神社(天照皇大神)
山井神社と國神社は延喜式内社。
櫻井神社の境内社を見る限り、これらの神社は本殿に相殿合祀されたのではなく、末社として櫻井神社境内に移転という形をとったものと思われる。但し畑八幡社は同じく八幡神(誉田別命)を祀る本殿に相殿となり、片蔵菅原社と田中菅原社は一つの社にまとめられたのだろう。逆瀬川神明社も同じく天照大神を祀る國神社に合祀されていると思われるが、大正十一年(1922)刊行の『大阪府全志』には末社として神明社(現存せず)が挙げられており、当初は独立した社であったようだ。
由緒書によると現在の境内末社は次の通り。
《櫻井神社末社》
- 國神社(天照皇大神 熊野大神 山王大神 金峯大神 白山大神)
- 山井神社(美豆波乃女命)
- 稲荷神社(保食神)
- 戎神社(蛭子神 言代主命)
- 招魂社(氏子戦死者百八十三柱)
- 八阪神社(須佐之男命)
- 若宮神社(仁徳天皇)
- 高良神社(高良大神)
- 武内神社(武内宿禰命)
- 多賀神社(伊邪那伎命)
- 玉桂屋神社(玉桂姫命)
- 住吉神社(住吉大神)
- 市杵島神社(市杵島姫命)
- 春日神社(天児屋根命)
- 菅原神社(菅原道真命)
このうち稲荷社・戎社・招魂社以外は本殿とともに瑞垣内に鎮座すると思われる。國神社は本殿の向かって右、山井神社は左に祀られている。ほか本殿背後にいくつかの小社が確認できるが、瑞垣内に立ち入ることはできないため詳細不明。武内社の武内宿禰は櫻井神社元来の祭神とされている。
桜井の祖神
明治以前の櫻井神社は「上神谷八幡宮」「別宮八幡宮社」などの名で記されており、中世以降八幡神を祀ってきたことには疑いの余地がない。しかし元来の祭神についての記録は残っていない。現在櫻井神社が伝える由緒は、『泉州志』の「武内宿禰後合祭八幡」即ち、武内宿禰を祀っていた神社にのちに八幡神を合祀したという推考に基づいている。
これは「桜井」という地名から桜井朝臣の居住地と推定したことによる。武内宿禰は桜井朝臣の祖とされる。
一方で、桜井の名を冠する氏族には他に渡来系の桜井宿禰もある。これは阿智使主の子都賀使主の後裔とされる。江戸前期の伊勢外宮神官度会延経による『神名帳考証』ではこちらを採用し、櫻井神社の祭神を阿智使主としている。
江戸末期の京都吉田神社神官鈴鹿連胤は『神社覈録』に於いて度会の説を「杜撰にして社伝をしらぬ誤」と一蹴しているが、桜井朝臣説もこれといって根拠がある訳ではない。武内宿禰が八幡神と縁が深いという程度のことだ。私はむしろ、桜井宿禰祖神説を推したい。
櫻井神社が鎮座する泉北丘陵一帯は古代における須恵器の大規模生産地だが、百済系帰化氏族の桜井宿禰が製陶技術者集団を引き連れてこの地に移住したとする説がある。
上神谷周辺の地名に須恵器生産が盛んだった時代の名残を見ることができる。
石津川上流にあたる「片蔵」「富蔵」付近は須恵器を運搬する船の拠点で、須恵器を保管する「蔵」が建ち並んでいたことが地名の由来とされる。朝廷直轄の倉庫「桜井屯倉」はこの地にあったともいう。
また「釜室」はやはり須恵器保管のための「室」や須恵器を焼く「窯」に由来するといわれる。
ひょっとすると「栂」の由来は桜井宿禰の祖である都賀使主なのかもしれない。
ところで、元禄四年(1691)の寺社改帳は、別宮八幡宮社(櫻井神社)の祭神を応神天皇・仲哀天皇・桜姫とする。この「桜姫」の素性はよくわからない。地元に何らかの伝承があったのだろうか。
櫻井古跡
櫻井神社の名は、「櫻井」と称する井戸に由来するともいわれる。その古跡が神社の西およそ百メートル、妙見川の畔に残る。井戸は明治十八年(1885)に洪水で埋まってしまい、現存しない。今あるものは「井戸の形をしたもの」。大正四年(1915)に復旧され、さらに平成元年(1989)妙見川拡幅と宮橋架け替え工事の際に整備が行われた。
参考文献:
◇度会延経『神名帳考証』 松岡雄淵書写(西尾市岩瀬文庫所蔵) 1760
◇栗田寛『神祇志料 巻之十』 温故堂 1886
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録 上編』 皇典講究所 1902
◇伴信友「神名帳考証」『伴信友全集 第一』 国書刊行会 1907
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇太田亮『和泉』(日本国誌資料叢書) 磯部甲陽堂 1925
◇大阪府学務部(編)『大阪府史蹟名勝天然記念物 第四冊』 大阪府学務部 1929
◇蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第十八巻 五畿内志・泉州志』 雄山閣 1929
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第五巻 京・畿内 5』 皇學館大学出版部 1977
◇永野仁(編)『日本名所風俗図会11 近畿の巻I』 角川書店 1981
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
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Commenti / コメント
コメント一覧 (2)
降臨石、やはり探せばあるんですね。
ところで福塚は、一部岩のようにも見えてるのですが、全部土なのでしょうか。
福塚ですが、岩ではなかったと思います。
板塀越しに遠目でしか確認していない上に、記憶も曖昧なので断言はできませんが。
次にお詣りしたときにもう一度確かめてみます。
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