天女の羽衣

 むかし、丹後(現在の京都府北部)の比治の里のはずれに和奈佐翁わなさのおきなという老狩人とその妻が住んでいた。夫婦は貧しく、その日その日を慎ましく暮らしていたが、子供のいない二人にとってはそれで不足はなかった。
 いつものように翁が山で獲物を探していると、空を横切るいくつかの影が視界に入った。鳥かと思ったが、それにしては大きい気もする。比治山の頂近くに「真奈井」と称する清水の湧く泉がある。影はその辺りに降りて行ったようだ。
 真奈井に近づくと、女の笑い合うような声が聴こえてきた。行ってみると、若い娘たちが泉で水浴びをしているではないか。
 天人に違いなかった。八人いる。翁はしばしの間その美しい姿に見惚れていた。
 見ると、泉の傍らの木に彼女らの脱いだ衣が掛けてある。衣は透き通るように真っ白で、木洩れ日の反射する水面よりも輝いて見えた。
 翁はさらに泉に近寄る。天女たちは水浴びと互いの話に夢中で気がついていない。翁は衣の一つをそっと手に取った。衣は滑るようになめらかで、羽毛のように軽かった。
 天女たちの声がこちらに近づいて来る。翁は衣を持ったまま慌てて岩陰に身を隠した。
 天女たちはひとしきり騒いでいたが、皆飛び去ったのか、やがて声がしなくなった。
 翁が恐る恐る岩から顔を出すと、裸の天女が一人そこに残っていた。天女は突然現れた翁に驚いて水に首まで浸かった。
 翁の手に衣があるのに気づき、天女は口を開いた。
「衣を返して下さい」
 翁は天女のこの世のものとは思えない美しさに改めてうっとりとしていたが、我に返ってこう言った。
「儂には子がおらん。そなたが儂の娘になってくれるなら返してやろう」
 天女は答えた。
「その通りにいたしましょう。ですから返して下さい」
 あっさりと承諾の言葉が返って来たので、翁は訝しんだ。
「そう言って、衣を返せば逃げる気であろう」
「連れの者たちに措き去りにされてしまいました。わたし一人では天に帰ることができません。帰り道がわからないのです。もう地上に留まるより他ありません。信じて下さいませ。衣がなければ恥ずかしくて水から出られません」
 翁はなお疑ってしばし問答が続いたが、ついに衣を元あった木に掛けた。

 十余年が過ぎた。
 老夫婦の娘となった天女は酒を造るのが得意だった。その酒を一杯飲めばどんな病も癒えると評判になり、手に入れる為に車いっぱいに金銀を積んで運ばせる者もいた。
 和奈佐の家はすっかり裕福になっていた。粗末なあばら家は大きな邸に建て替えられ、里の田畑はみな和奈佐の持ち物となった。老夫婦が余生を贅沢に過ごすのには十分過ぎる程の財産が蓄えられた。
 夫婦は娘を呼び寄せると、こう告げた。
「そなたは我が子ではない。しばらくの間仮に住まわせていただけだ。早く出て行け」
 娘は天を仰いで慟哭し地に伏して哀吟し、やがて老夫婦に言った。
「わたしは自ら望んでここに来たのではありません。あなた方が願ったことなのです。なのにどうしてそのようなむごいことを仰るのですか」
 翁はますます怒りを露わにしてすぐに立ち去るよう恫喝した。
 前が見えないほど涙を溢れさせながら、天女はやっとのことで邸の門を出た。
「久しく人間の世界で暮らして今更天に帰ることはできませんし、親しい縁者もないので行くところもありません。どうしたら良いのでしょう」
 涙を拭いながら里人に向かってそう嘆き、空の上の故郷を想って詠った。

天の原
ふりさけ見れば霞立ち
家路まどいて行く方知らずも

【天を仰げば霞が立ち、家路は遠くぼやけて帰り行くすべも知れない】

 比治の里を去った天女は村村を漂泊したのち、船木の里の奈具という村に到ってそこに留まり、安住の地とした。
 これが竹野の奈具神社に坐す豊宇賀能賣命とようかのめのみことである。
 そして、天女が去ったのち、和奈佐の家は没落し、村も荒れ果てたということである。

――丹後国風土記より


丹波から伊勢へ

 伊勢外宮こと豊受大神宮の創祀は、皇大神宮(内宮)鎮座からおよそ四百八十年後のこととされる。『止由気宮儀式帳』などによれば、雄略天皇二十一年(477)、天皇の夢に天照大神が現れてこのように告げたという。
「我が身一つでここにいるのは甚だ辛く、食事をするのも安らかでないから、丹波の比治の真奈井に坐す御饌都神みけつかみである等由気大神とゆけのおおかみを我が許に呼び寄せよ」
 そこで翌二十二年(478)年七月七日、度会郡山田原に宮を定めて等由気大神(豊受大神)を迎え祀った。そして御饌殿みけどのにて朝夕の大御饌おおみけを日ごとに作り天照大神に供えた。
 今なお、外宮正殿の奥の御饌殿みけでんにおいて、忌火屋殿いみびやでんで調理された神饌を供える神事が毎日朝夕欠かさず行われ続けている。

豊受大神宮

豊受大神宮



神宮外宮正宮 豊受大神宮
【じんぐうげくうしょうぐう とようけだいじんぐう】
鎮座地三重県伊勢市豊川町279
包括神社本庁
御祭神豊受大御神【とようけのおおみかみ】
御伴神【みとものかみ】三座(相殿)
創建雄略天皇二十二年(AD478)
創祀雄略天皇
延喜式神名帳伊勢國度會郡 度會宮四座 相殿坐神三座 並大 月次新嘗
別称/旧称伊勢神宮外宮 度会宮 豊受宮 等由気宮 止由気宮


豊受大神宮

豊受大神宮



 ミケツ神、即ち食物を司る神として、天照大神に奉仕する為に丹波から迎えられたという豊受大神と、『丹後国風土記』の豊宇賀能賣命とは同神とみられる。丹後国は和銅六年(713)に丹波国から分割されて立国しており、外宮の伝承における創建の当時は分国前となる。
 外宮の「元宮」を称する神社は複数存在する。その主なものを挙げる。

《元伊勢(外宮)伝承地》
  • 比沼麻奈為神社 京都府京丹後市峰山町久次

  • 藤社神社 京都府京丹後市峰山町鱒留

  • 奈具神社 京都府京丹後市弥栄町船木

  • 眞名井神社(籠神社摂社) 京都府宮津市大垣

  • 奈具神社 京都府宮津市由良

  • 豊受大神社 京都府福知山市大江町天田内


 これらのうち、藤社神社と比沼麻奈為神社は『丹後国風土記』にみえる豊宇賀能賣命が最初に降り立った比治山にも近く、『止由気宮儀式帳』の「丹波国比治真奈井」の有力な比定社であり、船木の奈具神社は豊宇賀能賣命が鎮まった奈具社である。

外宮の祭祀

 外宮には豊受大神とともに東に一座、西に二座の「御伴神三座」が祀られているが、この三神の名は秘せられている。一説に、天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみこと、中臣氏の祖神天児屋根命あめのこやねのみこと、忌部氏の祖神太玉命ふとだまのみことともいわれる。
 中臣氏と忌部氏はともに古代の宮中祭祀を司った氏族で、天児屋命と太玉命は天岩戸に引きこもった天照大神を外に出すための儀式を担った神であり、瓊瓊杵尊の天孫降臨に従った五伴緒いつとものおにも名を連ねている。

豊受大神宮

豊受大神宮



 豊受大神宮に所属する別宮は外宮域内の多賀宮たかのみや土宮つちのみや風宮かぜのみや、域外の月夜見宮つきよみのみやの四社。その他、十六社の摂社、八社の末社、四社の所管社がある。
 式年遷宮では勿論豊受大神宮も新しくなる。両正宮遷宮の翌年に別宮十四社の遷宮が行われ、摂社・末社・所管社百九社は四十年ごとに造替、二十年目に大修理というのが原則で、別宮遷宮の翌年から数年をかけて行われる。
 外宮での最初の式年遷宮は持統天皇六年(692)であったと伝わる。当初は内宮の遷宮の翌翌年であったらしい。同年に行われるようになったのは天正年間(1573~1592)以降。
 平成二十五年(2013)の第六十二回神宮式年遷宮の後、しばらくの間豊受大神宮の旧社殿が残され、一般公開もされていた。写真は平成二十六年(2014)二月参拝時のもの。

豊受大神宮 古殿舎

豊受大神宮 古殿舎



 外宮の神職を代代務めた度会氏は磯部氏の一族で、その首長が度会神主わたらいかんぬしの姓を与えられ、天照大神への供膳という重要な祭祀を担うこととなった。その本拠地が高倉山東北麓、現在の外宮一帯であったと思われる。
 鎌倉時代末には度会家行により伊勢神道が唱えられた。度会神道、外宮神道とも称する。本来天照大神の従属神であった豊受大神を根源神である天之御中主神・国常立神と同神であるとして、外宮を内宮と同格、あるいは格上に位置づけ、外宮の地位を高めようとしたものだ。
 度会神主の主な職務は御饌殿での神饌供御と、もう一つが秋の神嘗祭だった。伊勢神宮においては九月十五日と十六日の夜がその祭日で、平安期の記録によると十五日の祭は度会神主が豊受大神に捧げる祭となっている。十六日の天照大神の祭よりも豊受大神の祭を先に行うのである。
 神宮では「外宮先祭」といって、諸祭事を外宮で先に行う習わしがある。至上神の祭儀よりも一機能神のそれを先に行うというのは異常とも言えるが、これについて現在の神宮では、内宮に大御饌を奉るにはまず御饌都神である外宮で調理をしなければならない為と説明している。
 もっともな説明ではあるが、それでも天照大神の神嘗祭が十六日という中途半端な日であったのは不自然だ。おそらくもっと古い時代には、十五日も天照大神の祭であったのだろう。かつては度会神主が、十五日の宵から十六日の暁にかけて新穀をもって天照大神を祀ったものであった筈だ。
 本来は度会宮においても主神は天照大神であって、豊受神はそれに従属する穀神に過ぎなかったものが、いつしかその祀宮が豊受大神宮として皇大神宮に匹敵する規模となるに及んで、九月十五日の神嘗は豊受大神を対象とすることになり、祭日が変更されないまま、天照大神の神嘗よりも先に豊受大神の神嘗を行うという形が残ったのだろう。外宮先祭の由来はそこにあると考えられる。
 なお、外宮から先に参拝するのが正式であると言われることがあるが、これは俗説に過ぎない。外宮先祭を参拝順序にまで拡大して当てはめたのと、伊勢街道から神宮へ向かうと外宮が先になるのが自然という地理的な条件によってこの説が生まれたのだろう。神宮側も外宮先参りが習わしだとはしているが、あまりこだわらなくても良さそうだ。



豊受大神宮 御朱印

豊受大神宮 御朱印




参考文献:
◇沢瀉久孝(編)『上代文学選(上)』 三省堂 1941
◇塙保己一(編)『群書類従 第一輯』 続群書類従完成会 1979
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典24 三重県』 角川書店 1983
◇『お伊勢さん125社めぐり』(別冊『伊勢人』) 伊勢文化舎 2008


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