お伊勢さんの始まりから現在まで
崇神天皇五年(BC93)、疫病が流行して民の半数以上が死亡するという事態が訪れる。翌年になっても収まる気配はなく、土地を離れて流浪する者、反逆する者が相継ぎ、政が立ち行かなくなった。天皇が天神地祇に伺いを立てたところ、当時宮中に天照大神と倭大国魂を並祭していたのだが、両神が共に住んでいることに問題があるのだという(『日本書紀』の該当部分「畏其神勢 共住不安」を「天皇が両神と共に住むことを畏れた」と解釈する説もある)。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀らせることにした。垂仁天皇の代となると、豊鍬入姫の跡を姪の倭姫命が継ぎ、天照大神を奉斎して笠縫から大和菟田へ遷り、さらに近江や美濃を神の鎮まる地を求めて彷徨った。
そして垂仁天皇二十五年(BC5)三月、伊勢に至った時、
「この神風吹く伊勢の国は常世の波が幾重にも寄せ来たり、辺境ではあるが美しい国だ。この国に落ち着こう」
との神託がついに降りた。神意に従い、祠と斎宮を五十鈴川の川上に設けた。皇祖神天照大神を斎き祀る伊勢神宮の誕生である。
神宮内宮正宮 皇大神宮 【じんぐうないくうしょうぐう こうたいじんぐう】 | |
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鎮座地 | 三重県伊勢市宇治館町1 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 天照坐皇大御神【あまてらしますすめおおみかみ】 天手力男神【あめのたぢからおのかみ】(相殿) 万幡豊秋津姫命【よろずはたとよあきつひめのみこと】(相殿) |
創建 | 垂仁天皇二十六年(BC4) |
創祀 | 倭姫命 |
延喜式神名帳 | 伊勢國度會郡 大神宮三座 相殿坐神二座 並大 預月次新嘗等祭 |
社格等 | 二所宗廟 二十二社(上七社) |
別称/旧称 | 伊勢神宮内宮 伊勢大神宮 太神宮 五十鈴宮 五十鈴川上宮 |
伊勢神宮は全国の殆どの神社が加盟する包括宗教法人「神社本庁」が本宗とする特別な位置づけの神社(宗教法人法上では神社本庁の被包括法人)。神社本庁は伊勢神宮の崇敬団体であった神宮奉斎会が母体の一つとなって戦後設立されたもの。
伊勢神宮は皇祖を祀る神廟として石清水八幡宮(古代には宇佐神宮)とともに二所宗廟に数えられ、また中世には二十二社の一つとされた。日前神宮・國懸神宮とともに神階が授与されることのなかった別格の神社だった。
古くは伊勢大神宮・二所大神宮などと称したが,明治四年(1871)以降は単に「神宮」を正式名称とし、近代社格制度において社格を超越する存在として全ての神社の頂点とされた。
天照坐皇大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大外宮(外宮)の二つの御正宮がその中心となっており、それに別宮・摂社・末社・所管社を含めた計百二十五社で神宮は構成される。宮社の鎮座地は三重県下の四市二郡にわたる。
皇大神宮(内宮)は神路山の麓、五十鈴川の畔に鎮座する。
天照坐皇大御神は三種の神器の一つである八咫鏡を神体とする。相殿神として弓を神体とする天手力男神、剣を神体とする万幡豊秋津姫命を祀る。
皇大神宮に所属する別宮は十所。内宮境内に荒祭宮・風日祈宮、境外に月讀宮・瀧原宮・伊雑宮・倭姫宮がある。その他、境内外に二十七社の摂社、十六社の末社、三十社の所管社を有する。
皇大神宮板垣内には正宮の大宮所を守護する興玉神と宮比神、また板垣の外には神庭を守る屋乃波比伎神が祀られている。これら三つの所管社はいずれも社殿を持たず、石畳の上に鎮座する。一般には参拝できない為、板垣南御門前から遥拝する。
二十年ごとに行われる神宮式年遷宮はよく知られている。内外両宮の正宮・別宮の社殿を始め、鳥居や宇治橋、神宝などを造替する。皇大神宮正宮は隣り合う東西二つの敷地に交互に社殿が新築され、神霊が遷座する。
式年遷宮は持統天皇四年(690)以来、中断や延期もあったものの、およそ千三百年にわたって行われて来た。第六十二回神宮式年遷宮は平成二十五年(2013)に行われた。この記事の写真は遷宮から間もない平成二十六年(2014)二月のもの。
天照大神は女神か男神か
「斎宮」とは、未婚の皇女から選ばれ伊勢神宮に奉仕した「斎王」の御所を指す言葉だが、転じて斎王自身も指す。賀茂神社に奉仕する斎王もいたので、区別するため斎宮と称ばれた(賀茂神社の斎王は「斎院」と称する)。崇神帝の代の豊鍬入姫命がその始まりとされる。その後国家の大事があった時に斎宮が遣わされたが、天武天皇以降は正式に制度化され、天皇の代替わりごとに新たな斎宮が選定された。後醍醐天皇に至るまで六十四の皇女(または女王)が斎宮となったが、南北朝の争乱の中で廃絶した。
ところで、通海という伊勢神宮祭主大中臣隆通の子で真言僧となった人物が弘安十年(1287)頃に著した『太神宮参詣記』(『通海参詣記』)に、次のような奇妙な記述がある。
「サテモ斎宮ハ皇太神宮ノ后宮ニ准給テ、ヨナヨナ御カヨヒアルニヨリテ、斎宮ノ御衾ノ下ニハ、アシタコトニクチナワノイロコヲチ侍ナト申人アリ」(傍点引用者)
現代語訳すると、「斎宮は皇大神宮(天照大神)の后であって、(大神が)夜な夜なお通いになるので、斎宮の寝具には朝になると蛇の鱗が落ちているなどという人がいる」となる。つまり、女神とされている天照大神が男神であり、しかも蛇身だというのだ。
同じく鎌倉時代に成立した大鳥神社(大阪府堺市)の『大鳥太神宮并神鳳寺縁起帳』にも、天照大神が公家のような姿となって斎宮の寝所に入り、必ず三枚の鱗を落としていくのだが、これを大唐櫃にとってあって、櫃が鱗で満たされた時にこの世が滅ぶということが末法思想と結びつけて書かれているという。
また、伊勢神宮祀官の度会(山田大路)元長が文明十五年(1483)頃に撰述した『元長修祓記』にも、神宮の神は蛇体であると記されている。
そしてこの伝承と合わせてしばしば挙げられるのが、能の演目『三輪』における「思えば伊勢と三輪の神 思えば伊勢と三輪の神 一体分身のおん事 今さらなにと岩倉や」だ。「三輪の神」とは大神神社(奈良県桜井市)の大物主神のこと。天照大神と大物主神は同体であるという。大物主は蛇の姿で姫の許に通う神話が伝えられていて、天照の蛇神説と重なる。
これらは仏教に影響を受けて神話を再解釈した、いわゆる「中世神話」に属するものだ。
通海は上記の記述に続けて「甚ダ不実也」「荒説也」とこの説を切り捨てているが、当時この話がある程度広まっていたことがうかがえる。
果たして天照大神は女神なのか男神なのか。そして蛇神大物主大神と同体であるのか。このことはいつか深く掘り下げてみたいテーマの一つだ。
参考文献:
◇神宮司庁(編)『神宮参拝記大成』(大神宮叢書 第四) 西濃印刷 1937
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典24 三重県』 角川書店 1983
◇『お伊勢さん125社めぐり』(別冊『伊勢人』) 伊勢文化舎 2008
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