寺田村鎮守
大阪府和泉市の寺田神明神社は、和泉国和泉郡寺田村の産土神として同村字井戸田に鎮座していた。神明神社 【しんめいじんじゃ】 | |
---|---|
鎮座地 | 大阪府和泉市寺田町三丁目3-24 |
御祭神 | 天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】 天児屋根命【あめのこやねのみこと】 品陀別命【ほんだわけのみこと】 |
創建 | 不詳 |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 寺田神社 天照大神社 |
天照皇大神・天児屋根命(春日大神)・品陀別命(八幡大神)を祀る。
江戸時代の村明細帳には「天照大神社」とある。宮寺は無かったようだ。氏子が輪番で神主を務めていた。
明治に入り、神明神社の名で村社に列する。明治八年(1875)の神社明細帳によると氏子戸数は三十七戸。
明治四十一年(1908)十一月五日、神社合祀令にのっとり、春木の春日神社に神霊が遷される。
のち昭和二十八年(1953)、春日神社より神霊を分離し、旧鎮座地の程近くに還座。
そして昭和四十年(1965)頃、公民館隣の現在地に社殿を新築、遷座する。
拝殿の格子戸越しに神域を覗く。玉砂利が敷き詰められ、綺麗に手入れされている印象。
奥正面に本殿があり、向かって左の脇に仏像らしきものが三体並んだ覆堂と、小さな境内社が見える。和泉市PTA文庫『市内の神社と祭り』によれば、仏像は地蔵菩薩・釈迦如来・観音菩薩とのこと。
祭礼今昔
岸和田のものがすっかり有名になった地車祭だが、和泉でも秋祭には地車が曳行される。岸和田海手のだんじり祭から一月遅れの十月、各町から地車が出て雄壮なその姿を競う。寺田町では昭和二十六年(1951)頃に地車を黒鳥辻小路へ売却して以来、長い間地車の無い時期が続いたが、平成七年(1995)に地車を新調し復活した。
一方で、廃れてしまった行事もある。
かつては十月四日の夕方に「百燈明」と称し、百本の蝋燭に順に火を点しながら祝詞を上げるという行事があったらしい。由来は不明。
十二月二日の「亥の子」では、子供たちが藁束で家家の門先を叩いて廻り、お菓子などをもらった。
戦前までは一月十四日の夜にとんどが行われ、この種火で翌朝に餅入り小豆粥を煮く風習があった。
八月七日には牛神祭。牛の形をした焼き物を祀ってその前に三宝に入れた食べ物を供え、子供たちは太鼓を叩いて牛神詣りをした。牛神を祀る森があったそうだが今では跡形もない。
神明神社の宮座は神主を務める宮年寄六人衆と世話役の中老八人衆によって構成されていた。
六人衆は一月ごとに交代で神主となり、毎晩燈明を上げ、一日と六日に膳を供した。
座衆には株があって、その家が絶えると株が売られ、買った家が新たに座衆に加わる。
一月十一日には当屋に座衆が集まり、馳走を受ける。
座筋の家に男子が生まれると、赤飯を炊いて社に供え、お下がりをその家に持っていって祝い、座帳に帳付けをした。
また、座筋の家の子が所属する子供座があった。牛神祭や亥の子は子供座が主体となって行われた。
六人衆と八人衆からなる宮座は戦後十人衆となってしばらく存続していたが、現在は廃絶している。
これら宮座の廃止や祭礼の断絶は、単に時代の流れと言い切れないものがある。やはり神社合祀による影響は小さくなかった。全国で多くの神社が消滅するとともに、地域の伝統習俗も失われてしまった。
寺田は松尾地区で最も北に位置し、合祀先の春木春日神社が距離的に離れているのみならず、同社に合祀された松尾谷一帯の他の神社と違い、八坂神社が合祀された箕形とともに元来春木とは地域的つながりが薄かったことも、それに拍車をかけた可能性がある。
それでも、神社が復祀されているだけまだ良いのかもしれない。それすら叶わないまま忘れられてしまった神社も少なくないのだから。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇大越勝秋「和泉市における宮座2」『阪南論集 第十一巻第一号』 阪南大学 1975
◇和泉市PTA協議会文化委員会(編)『市内の神社と祭り』(和泉市PTA文庫 第4集) 和泉市PTA協議会文化委員会 1982
◇和泉市史編さん委員会(編)『和泉市の歴史2 松尾谷の歴史と松尾寺』 和泉市 2008
◇塚田孝(監修)/和泉市史編さん委員会(編集)『和泉の村の明細帳I』(和泉市史紀要 第20集) 和泉市教育委員会 2014
大きな地図で表示
Commenti / コメント
コメントする