簡素の美
奈良に来たら、まず小規模ではあるが非常に古い簡素優雅な十輪院を訪ねて静かにその美を観照し、また近傍の風物や素朴な街路などを心ゆくまで味うがよい。
――ブルーノ・タウト『奈良』
(篠田英雄訳)
(篠田英雄訳)
桂離宮や伊勢神宮を絶賛したことで知られるドイツの建築家ブルーノ・タウト。彼はナチス政権下のドイツを離れて日本に亡命した昭和八年(1933)から同十一年(1936)の間に、奈良を二度訪れている。
冒頭の引用は遺稿をまとめた著書『忘れられた日本』に収録されている、『奈良』と題した随筆の一節。
奈良という古都の真の美しさは(当時の)ガイドブックに載っているような有名な大社寺にあるのではなく、十輪院や新薬師寺といった小寺院、更に言えば何でもない小径や土塀や石畳や植込などの素朴で自然的な美にこそ、その真骨頂があるのだと述べる。
ならまちに閑然と佇む十輪院の簡素なる美を、タウトは愛した。
石仏の寺
寺伝によれば、十輪院は天平七年(735)、朝野宿禰魚養により元興寺の別院として創建された。魚養は吉備真備が遣唐使として唐に滞在中に現地の女性に生ませた子だといわれ、空海の書の師ともいう伝説的な人物。
大和北部八十八ヶ所 第六番 雨宝山十輪院 【うほうざんじゅうりんいん】 | |
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所在地 | 奈良県奈良市十輪院町27 |
宗派 | 真言宗醍醐派 |
御本尊 | 地蔵菩薩 |
創建 | 天平七年(AD735) |
開基 | 朝野魚養 |
別称/旧称 | 飛鳥坊 |
御詠歌 | ありがたやろくどうのうげのじぞうそんぼだいのえにしむすぶ十輪 |
はじめ飛鳥坊と称したが、弘仁年間(810~824)に弘法大師が地蔵菩薩を彫って新たに本尊とし、十輪院と号したという。
その名が確認できる最初の史料は鎌倉時代中期に無住一円が著した『沙石集』で、福智院・知足院とともに南都の霊験あらたかな地蔵尊として記されている。広く庶民の信仰を集める寺院であったことが窺える。
中世には春日地蔵信仰との関係から興福寺の末寺となっていたが、近世に真言宗寺院となる。
本尊地蔵菩薩は石仏龕といわれる、花崗岩の切石に浮き彫りで表現した非常に珍しいもの。「龕」とは仏像や仏具を納めるため石窟や建物の壁面などに設けた窪みを意味し、厨子の原型となるもの。龕中央に地蔵菩薩、その左右に釈迦如来と弥勒菩薩を配する。周囲には仁王・聖観音・不動明王・十王・四天王などの諸尊や、北斗七星・九曜・十二宮・二十八宿を表す梵字などが刻まれている。
龕前には棺を安置するための引導石が置かれている。
本堂は国宝。石仏龕を拝むための礼堂として鎌倉時代に建立されたもの。
正面の広縁に蔀戸を用い、全体に低く造られた、仏堂らしからぬ中世邸宅風の佇まいで、タウトが心魅かれたのも頷ける優美な姿。
当初石仏龕は露天に置かれており本堂とは独立していたが、のちに覆堂が造られ、本堂とつなげられて現在の形となった。
『奈良坊目拙解』では本堂は「灌頂堂」と記され、本尊を地蔵石仏ではなく大日如来としている。
護摩堂には不動明王と制多迦・矜羯羅の二童子が安置されている。智証大師円珍の作と伝わり、一願不動尊として信仰を集める。
石仏龕の他にも、境内には石造物が多く見られる。合掌観音像や興福寺曼荼羅石、愛染曼荼羅石など。
石造不動明王は本尊と同じく弘法大師の作と伝わる。
その他、朝野魚養の墓といわれる魚養塚がある。
十輪院境内に「奥の寺」と称された興善寺という浄土宗寺院ができ、独立したことによって、この魚養塚はしばらく興善寺の域内となっていたが、寛永年間(1624~1645)に興善寺に替地が与えられ、再び十輪院境内となったという。なお、興善寺の本尊は快慶の作と伝わる木造阿弥陀如来立像で、昭和三十七年(1962)に胎内から法然上人自筆の書状などが発見されたことで知られる。
十輪院は古都の真の魅力を再発見できる味わい深い寺院だ。境内はそれほど広くないがきれいに整備され、心地よい時間を過ごすことができるだろう。
奈良――耳には快い音調であり、心には大きな収穫である。
――ブルーノ・タウト『奈良』
(篠田英雄訳)
(篠田英雄訳)
参考文献:
◇『奈良市寺院明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1894
◇渡邊綱也(校註)『日本古典文学大系85 沙石集』 岩波書店 1966
◇村井古道/喜多野徳俊(訳註)『奈良坊目拙解』 綜芸舎 1977
◇鈴木嘉吉ほか『大和の古寺3 元興寺 元興寺極楽坊 般若寺 十輪院』 岩波書店 1981
◇圭室文雄(編)『日本名刹大事典』 雄山閣出版 1992
◇ブルーノ・タウト/篠田英雄(編訳)『忘れられた日本』 中央公論新社 2007
◇武石伊嗣/武石万里子『全国三十三カ所観音霊場および全国八十八カ所霊場ご詠歌集』 神谷書房 2009
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