幻の大寺

 南都七大寺のひとつに数えられる元興寺の歴史は飛鳥の地に始まる。
 用明天皇二年(587)。仏教公伝から五十年近くが経っていたが、未だ本格的な仏教施設は存在していなかった。天皇は、大寺院を建てて百済より僧を招来せんと欲し、それに相応しい土地を探すよう聖徳太子らに命じた。
 翌崇峻天皇元年(588)、百済僧が仏舎利を携え、技術者とともに海を渡って来た。飛鳥真神原まかみのはらにあった飛鳥衣縫あすかのきぬぬい樹葉このはの邸宅を壊し、初の本格的仏教寺院である法興寺の造営がこの年開始された。
 完成したのは推古天皇四年(596)というから、発願より十年を要したことになる。蘇我馬子の子である善徳が法興寺の寺司となり、高句麗僧の慧慈と百済僧の慧聰が住した。
 和銅三年(710)の平城京遷都に伴い、法興寺は奈良の地へ移転し、新たに元興寺と称する。養老二年(718)のことという。その寺域は南北四町(約四百三十六メートル)、東西二町(約二百十八メートル)という広大なもので、猿沢池南方の現在「ならまち」と称する地区の大部分を占めていた。金堂・講堂を中心に東西に大塔院・小塔院を配し、後方(北)に鐘堂・食堂、その左右に僧房が建ち並ぶ大伽藍だった。
 元興寺は慧潅の伝えた元興寺流三論宗、道昭の伝えた南寺伝(飛鳥流)法相宗の道場として大いに栄えたが、平安中期以降次第に衰微してゆく。長元八年(1035)の『堂舎損色検録帳』に当時の荒廃した様子が記されている。
 その中で、平安末期の浄土教の隆盛に伴い、奈良時代の智光が感得した智光曼荼羅が評判を呼び、智光が住したと伝わる僧房の一部が「極楽坊」として庶民の信仰を集めるようになる。極楽坊はやがて元興寺から独立した寺院となってゆく。
 一方の伽藍中枢はといえば、鎌倉時代初期まで残っていた講堂や食堂はいつしか朽ち果て、さらに宝徳三年(1451)の徳政一揆による火災で金堂など残った堂宇の多くも焼失してしまう。金堂は寛正三年(1462)に仮堂として再建されるも、文明四年(1472)の台風で倒壊し、以後再興されることはなかった。こうして元興寺は、火災の被害を免れた五重大塔・観音堂を護持する中門堂衆と、小塔堂に拠る小塔院とに分離することとなる。
 やがて元興寺の旧寺域には民家が侵食し、今日の「ならまち」が形成されてゆく。観音堂・小塔院・極楽坊の三箇寺は、その中に埋もれるようにして、元興寺の法灯を今に伝えている。

元興寺 表門

元興寺 表門



五重大塔と中門観音堂

 三箇寺のうち、二つの寺院が現在も「元興寺」を名乗っている。その一つがかつては極楽坊(極楽院)と称した真言律宗の元興寺で、もう一つが大和北部八十八ヶ所霊場第五番、観音堂の流れを汲み、五重大塔跡地を有する華厳宗の元興寺。「元興寺塔跡」と通称されている。

元興寺 中門

元興寺 中門




大和北部八十八ヶ所 第五番
元興寺
【がんごうじ】
所在地奈良県奈良市芝新屋町12
宗派華厳宗
御本尊弥勒菩薩
創建延喜三年(AD903)(観音堂)
開山義済法師(観音堂)
寺格等南都七大寺
別称/旧称東大塔院 東塔院 大塔院 中門堂 観音堂 塔跡
御詠歌むばたまのうきよのやみをてらせるはさとるこころのひかりなりけり


元興寺 本堂

元興寺 本堂



 旧元興寺の五重大塔を中心とする大塔院(東塔院)のあった区域に、中門堂衆と称ばれる一派が拠ったのが華厳宗元興寺のルーツ。
 彼らは宝徳の火災で焼け残った五重塔と観音堂を守り、元興寺の法灯を継いできたが、安政六年(1859)の火災で塔と観音堂は全焼し跡形もなくなってしまう。

元興寺 五重塔址

元興寺 五重塔址



 五重塔は天平宝字元年(757)の建立という。伝承によると一辺三丈(約九メートル)、高さは二十四丈(約七十三メートル)だったという。現存する五重塔で最も高いのが東寺のもので約五十五メートル、それに次ぐ興福寺が約五十一メートルだから、それらを遥かに超える巨大なものだったことになる。発掘調査により、実際には十九丈(約五十七メートル)程度だったとみられているが、それでも東寺のものより高い。
 この塔に安置されていたといわれる(異説もある)のが、現在は奈良国立博物館に寄託されている国宝の木造薬師如来立像。安政六年(1859)二月の五重塔焼失の際には罹災を免れ、この像を安置するため同年七月に仮堂が建てられて明治まであったようだが、現存しない。今は塔の基壇だけが残る。

元興寺 五重塔址

元興寺 五重塔址



 五重塔の傍らには延喜三年(903)に義済が建てたと伝わる観音堂があり、元は金堂前の中門に安置されていた十一面観音像をここに祀っていたという。伝承によれば、聖武天皇・光明皇后の菩提のため、孝謙天皇が稽文会・稽首勲に彫らせたもので、大和長谷寺の観音像と同じ木材を使って造られた。この像は霊験あらたかであるとして「中門観音」の名でよく知られ、故にそれを遷した大塔院観音堂は「中門堂」とも称ばれた。ここの寺僧が中門堂衆と称したのはそのため。
 現在元興寺が所有する木造十一面観音立像(重文)は鎌倉時代のもの。右手に錫杖、左手に水瓶を持つ長谷寺式の像(錫杖は失われている)。この像も薬師如来とともに奈良国立博物館に寄託されている。
 観音堂は安政の火災の八年後、慶応三年(1867)八月に仮堂として再建されている。その後、昭和十年(1935)に現在の本堂が建てられ、今に至る。

元興寺 十三重石塔と鐘楼

元興寺 十三重石塔と鐘楼



 なお、華厳宗元興寺の本尊は十一面観音とされることが多いが、薬師如来、あるいは弥勒菩薩とする資料もある。明治の寺院明細帳では十一面観音と薬師如来の両方を本尊としている(薬師如来を後から書き加えている)。これは時期や、観音堂と大塔のどちらを中心堂宇とするかによる違いと思われる。
『日本名刹大事典』によると、本堂内陣に薬師如来・弥勒菩薩・十一面観音、西脇壇に阿弥陀如来・釈迦如来・文殊菩薩・四天王と仁王・不動明王・護命僧正・道昭僧正・明詮僧正、東脇壇には千体地蔵・弘法大師・半跏地蔵菩薩・聖徳太子・役行者を安置するという。このうち、薬師と十一面は前述のように奈良国立博物館にあるから、現在内陣に安置されているのは弥勒菩薩のみということになる。現在の本尊は弥勒菩薩とするのが妥当だろう。かつての大寺、元興寺金堂の本尊も弥勒仏だった。
 また、元禄八年(1695)の大和北部八十八ヶ所御詠歌集では札所本尊が薬師如来となっている。

元興寺 地蔵堂

元興寺 地蔵堂



 本堂西脇壇の木造不動明王坐像は奈良市指定文化財。光背裏の墨書銘から、生駒山宝山寺湛海の指示に基づき、初代清水隆慶が元禄九年(1696)に造立したことがわかっている。隆慶は湛海のもとで多くの仏像を制作したが、湛海存命中にその名が表に出ることはほとんどなかった。湛海自刻と伝わる宝山寺の不動明王像も実際には隆慶の手になるとされる。この元興寺の像は壮年期の隆慶造像であることが明確な唯一の作品。

元興寺 稲荷社

元興寺 稲荷社



 本堂の前に「啼燈籠なきどうろう」と称ばれる古い石燈籠がある。延享年間(1744~1747)、京都伏見の下村家(大丸呉服店創業家)が新しい燈籠を奉納し、この燈籠を譲り受けて自邸に置いた。それ以来、夜毎に家鳴りと震動がするので調べたところ、燈籠が震えて音を発していたのだった。それで元の場所に戻したという。正嘉元年(1257)の銘があり、年号が刻まれた燈籠としては奈良市で二番目に古いもの。昭和十九年(1944)の地震で破損し撤去されていたが、平成二十二年(2010)に修復された。

元興寺 啼燈籠

元興寺 啼燈籠



 華厳宗元興寺の境内はひっそりと静まり返っていた。かつて奈良の名所だった五重大塔も今はなく、その名残の礎石のみが華やかなりし天平の記憶をかすかに伝えている。

元興寺 御朱印 「南無佛」

元興寺 御朱印 「南無佛」




参考文献:
◇『奈良市寺院明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1894
◇村井古道/喜多野徳俊(訳註)『奈良坊目拙解』 綜芸舎 1977
◇鈴木嘉吉ほか『大和の古寺3 元興寺 元興寺極楽坊 般若寺 十輪院』 岩波書店 1981
◇圭室文雄(編)『日本名刹大事典』 雄山閣出版 1992
◇武石伊嗣/武石万里子『全国三十三カ所観音霊場および全国八十八カ所霊場ご詠歌集』 神谷書房 2009


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