當麻路
二上山は死の山だ。大和の太陽は三輪山から昇り、二上山に沈む。二上山の向こう、河内の磯長谷は「王陵の谷」とも称ばれ、多くの貴人の陵墓が密集する葬送地であり、二上山はその象徴として墓標のように聳える。その山頂近くには悲劇の最期を遂げた大津皇子の墓が幽寂と佇む。仏教が伝来すると、阿弥陀如来のおわす西方浄土への信仰と結びつき、気高き中将姫の伝説も生まれた。
その懐に抱かれる當麻の里は、生と死のあわいにある鎮魂の地。
今年何度目かの當麻寺参詣。紅葉にはまだ大分早い。
境内を気が済むまでぶらぶらしてから、黒門(北門)を出て少し歩く。中将姫の墓といわれる十三重石塔や奈良県最古の五輪石塔がある當麻北共同墓地横の坂道を西へ向けて上ってゆく。この道の先に二上山の頂がある。二上山への道を黄泉国へと続く坂に見立てた俳句をどこかで目にした記憶があるが、作者は誰だったろう。
墓地を過ぎると當麻山口神社の石鳥居。さらに上ると、やがて朱に塗られた山口神社の二の鳥居が見えてくる。その傍らに、奇異な建物がぽつんと立っている。心柱一本で瓦屋根を支えるその姿から「傘堂」と称ばれている。
大池造営と傘堂建立
葛城市新在家の大池東畔にある傘堂は、郡山藩主本多内記政勝の菩提を弔う位牌堂として、この地の郡奉行を務めた吉弘甚左衛門尉統家と領民らによって延宝二年(1674)に建立された。政勝は徳川家康に仕え、家中きっての剛の者といわれた本多忠勝の孫にあたる。傘堂 【かさどう】 | |
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所在地 | 奈良県葛城市染野新山 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 延宝二年(AD1674) |
開基 | 吉弘統家 |
別称/旧称 | 唐傘堂 |
染野・新在家・今在家の三地区が共同管理している。
左甚五郎が建てたという伝承もある。特異なその形状から伝説の名工に結びつけられたのだろう。
総欅造りで、一辺約四十センチメートルの方柱の上に宝形造、本瓦葺の屋根がのる。軒瓦には本多候の「本」の文字が印されている。
東側の軒裏に位牌を納める厨子が設えられている。「長徳院殿前拾遺泰誉迎和道永大居士神儀」とある政勝の位牌は染野の石光寺(浄土宗)、新在家の明圓寺(浄土真宗本願寺派)、今在家の観音寺(浄土宗)が一年ごとに輪番で預かる。
「傘阿弥陀」と称する本尊の阿弥陀如来像は石光寺に保管されている。
北側に細い柱が一本あり、その上の横木に吊金具が見える。建立当時はここに梵鐘が吊り下げられていた。現在明圓寺にあるその鐘には、この地の灌漑池である大池築造の経緯とともに、「恋王の私情に勝えず」「一恩永伝」等の銘文が刻まれ、願主である吉弘統家と本多政勝との深い君臣関係がわかる。
なお、明圓寺は『西国三十三所名所図会』では「妙栄寺」となっている。宝永五年(1708)に現在の寺号に改めたという。
傘堂の傍らに墓碑が二基。右の一基が吉弘統家のもので「元禄九年八月廿日壽弘院法誉西願居士」「俗名吉弘甚左衛門尉統家」の銘がある。もう一基は藤懸玄達という人物のもので「豊後国住 藤懸氏玄達延宝六戊午年霜月廿八日」とある。玄達も統家とともに大池造営に携わった人のようだ。
八月朔日、傘堂を管理する三地区の人びとによって施餓鬼会(八朔法要)が行われる(現在は九月の第一日曜)。
『西国三十三所名所図会』によると、この日は政勝候の位牌を持ち来たり、香華供物を供え、梵鐘を傘堂に吊り、四面に幕を張り、提灯を吊り、三ヶ村の老若が集い、僧の読経が修された。
現在は二基の墓碑の前に藩主の位牌を据えて法要が行われる。水飢饉に苦しむ領民のため大池築造に着手した藩主と工事に尽力した人びとの菩提を弔い、そして大池の恩恵に感謝すべく、三百年以上にわたって続けられている。
また、いつの頃からか、傘堂に三度詣でると死苦から逃れることができるというぽっくり信仰が生まれた。當麻寺の練供養が行われる五月十四日には大勢の人がここを訪れ、柱に体を接しながら周囲を巡り安楽往生を祈願する姿が見られる。
傘堂は藩主のみならず、大池の工事に携わった全ての人びとの供養塔であり、また浄土信仰の拠りどころともなった。
鎮魂の里當麻。西方浄土の入口である二上山を望むこの地で、傘堂はこれからも大切に守られてゆくだろう。
参考文献:
◇林英夫(編)『日本名所風俗図会18 諸国の巻III 』 角川書店 1980
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典29 奈良県』 角川書店 1990
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