田原の里へ

『古事記』を編纂した太安萬侶おおのやすまろの出身地といわれるおおの地でその御魂を祀る小杜こもり神社を後にし、大和盆地を北上する。
 奈良市街を抜け、林道を東へ。程なくしてのどかな田園風景が現れる。水田と茶畑が広がる静かな山里、田原たわら
 
田原地区此瀬町トンボ山の茶畑

田原地区此瀬町トンボ山の茶畑



 田原地区の中央部、旧此瀬このせ村の鎮守天神社を訪ねる。
 道を逸れて斜面を上ると砂利を敷き詰めた平坦地になっており、右手に公民館がある。公民館の建つ場所にはかつて阿弥陀如来を祀る惣堂があって、村の寄合所となっていた。称び名が公民館と変わっただけで、その役割は昔も今も同じ。
 平坦地の奥に石垣が築かれている。その上に天神社は鎮座する。

天神社

天神社



天神社
【てんじんしゃ】
鎮座地奈良県奈良市此瀬町クンキヨ402
包括神社本庁
御祭神豊斟淳命【とよくむぬのみこと】
創建不詳
社格等旧村社
別称/旧称天神神社 天満宮


天神社

天神社



 朱の板塀に囲われた神域内に、やはり朱に塗られた祠が二つ。向かって右が本社の天神社、左が摂社春日神社。
 祠にはそれぞれ鹿と紅葉、獅子と牡丹の絵が描かれている。彩色はまだ鮮やかで最近のものと見受けられる。この様式の社殿は田原地区の他の神社においてもよく見られる。

天神社と春日神社

天神社と春日神社




原初の神

 天神社の祭神は豊斟淳命とよくむぬのみこと。『古事記』では豊雲野と表記され、天地開闢神話において、別天神ことあまつかみ五柱に続いて現われる神世七代のうちの国之常立神くにのとこたちのかみに次ぐ第二の神で、配偶神をもたない独神ひとりがみの最後となる神。『日本書紀』本文では、国常立尊くにのとこたちのみこと国狭槌尊くにのさづちのみことに続く第三の神で、陽気のみを受けて生じた男神のうちの最後の神。天地の間に漂う混沌としたものが雲のように集まり、固まってゆく様を神格化したものといわれ、また生命力に満ちた豊かな大地を表す神とされる。
 摂社春日神社の祭神は天児屋根命あめのこやねのみこと。春日大社に祀られる四神のうちの一柱。田原の地は春日大社から近く、古くからその影響が強かったと見られ、同神を祀る神社は多い。

天神社 燈籠 「天神社」「春日社」

天神社 燈籠 「天神社」「春日社」



 ところで、境内には三基の石燈籠があるのだが、うち一基に「天満宮」と刻まれている。天満宮といえば天満大自在天神こと菅原道真を祀る神社だが、此瀬天神社の祭神に道真の名は見えない。しかし寛延四年(1751)の『宗国史』にも「天満宮」の記述があり、天満宮と称ばれた時期があるのは間違いない。以前は道真が祭神だったのだろうか。
 実際、田原地区には道真を祀る「天満神社」「天神社」が多く、豊斟淳命を祭神とするのは此瀬天神社と、此瀬村の本村にあたる和田村の天神社のみ。此瀬天神社は南田原村の天満神社(祭神菅原道真)からの分霊と伝わることも、元の祭神が道真であったのを裏付ける。
 だとすると祭神が変わったのはいつのことだろうか。明治十二年(1879)の神社明細帳に豊斟淳命の名が記されていることから、祭神変更は江戸時代後期から明治初頭の間と推定される。
 ともあれ、大地の生命力という、豊穣をもたらす力を司る豊斟淳命は、緑の茶畑が広がる此瀬町には似つかわしくも思える。

天神社 燈籠 「天満宮 春日社」

天神社 燈籠 「天満宮 春日社」



葬送の山里

 それは考古学史上稀にみる大発見だった。
 昭和五十四年(1979)一月、此瀬町字トンボ山の茶畑で茶の植え替え作業中、貴重な歴史的遺物が偶然見つかった。出土したのは火葬された骨と副葬品、そして葬られた人物の名を記した墓誌。その名は驚くべきものだった。
 太安萬侶の墓だったのだ。

太安萬侶墓

太安萬侶墓



 墳丘は直径およそ四メートル半の円墳と推定される。中央部におよそ二メートル四方の墓坑を掘り、周囲を木炭で被覆している。墓坑中央に銅板製の墓誌を置き、その上に木櫃を安置する。木櫃の中には真珠四顆などの副葬品とともに遺骨が納められていた。墓誌には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」と、居住地・位階勲等・死亡年月日・埋葬年月日が記されている。
 この発見により、架空人物説もあった太安萬侶の実在が証明されたのだった。

 案内板に従って茶畑の斜面を上ると、石で丸く囲った安萬侶の墓が現れた。綺麗に整備され、祭壇には青青とした榊が捧げられている。地元の人に大切にされているのだろう。振り返ると田園や向こう側の山山を一望できる。青空と茶畑の緑が美しい。

太安萬侶墓

太安萬侶墓



 田原は平城京の時代、天皇や貴族の葬送地だった。光仁天皇陵や春日宮天皇(志貴皇子しきのみこ)陵もある。日本の原風景と言うに相応しいのどかな山里には、千三百年前を生きた人びとの魂が今も眠っている。


古事記が生まれた大和
『古事記』成立に関わる二人のキーマン、稗田阿礼と太安萬侶。彼らゆかりの土地を訪ね、千三百年前に想いを馳せる旅。
 I賣太神社〔大和郡山市稗田町〕
神話の語り部稗田阿礼
 II小杜神社〔磯城郡田原本町多〕
多一族の根拠地と太安萬侶の祠廟
 III天神社〔奈良市此瀬町〕
原初の神を祀る社と太安萬侶が眠る葬送地



参考文献:
◇『大和国添上郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1879
◇『添上郡神社実測図並見取図』 奈良県立図書情報館所蔵 1891
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典29 奈良県』 角川書店 1990


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