多一族の里
古事記の編者である太朝臣安萬侶を出した多氏は、大和国十市郡飫富郷(現田原本町多)を本貫とする名族。初代神武天皇の子である神八井耳命を氏祖とし、皇別氏族(皇族から分かれた氏族)としては最古級に属する。飫富(多)の地には神八井耳が奉斎したと伝わる多坐弥志理都比古神社が鎮座する。多氏の氏神社であり、大和でも屈指の有力神社だった。
その多坐弥志理都比古神社(以下多神社とする)の境外摂社のひとつに小杜神社がある。太安萬侶を祀るという。
多社の皇子神
小杜神社は多神社本殿のおよそ二百メートル南に位置する。多神社の若宮四社のひとつ。多坐弥志理都比古神社摂社 小杜神社 【おおにますみしりつひこじんじゃせっしゃ こもりじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 奈良県磯城郡田原本町多木ノ下272 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 太安萬侶命【おおのやすまろのみこと】 |
創建 | 不詳 |
延喜式神名帳 | 大和國十市郡 小社神命神社 大社皇子神 |
社格等 | 旧県社 |
別称/旧称 | 木ノ下神社 樹森神社 |
『延喜式神名帳』大和国十市郡の項の筆頭には「多坐彌志理都比古神社二座」が記され、さらに十社が列挙された後に
「皇子神命神社
姫皇子命神社
小社神命神社
屋就神命神社 已上四神大社皇子神」とある。以上四神は「大社」の皇子神である、と註釈がある。「大社」は「太(=多)社」だろう。
『神名帳』金剛寺本・九條家本・吉田家本いずれも小「社」としているが、近世以降の史料では小「杜」とするものが多い。
訓みは「ヲモリ」とも「ヲヤシロ」とも。『特選神名牒』は「コモリ」とする。久安五年(1149)の『多神社注進状』では樹森神社となっている。
江戸中期の『大和志』には「木下社」と称するとある。明治十二年(1879)の神社明細帳では「元木下神社ト云 今小杜神社ト称ス」としているが、同二十四年(1891)の明細帳は「木ノ下神社」とする。「木ノ下」は鎮座地の小字名。
明治の社格制度の下で村社となる。
皇紀二千六百年にあたる昭和十五年(1940)に境内拡張、社殿新築が行われ、同十九年(1944)には同じく『古事記』編纂に携わった稗田阿礼を祀る賣太神社とともに県社に昇格している。
多神社の皇子神とされていることから見て、本来の祭神は太安萬侶とは考えにくい。享保十九年(1734)の『大和志』に「伝云祭安麻呂」とあるが、安萬侶を祀るとされるようになるのはそれをさほど遡らない時期ではなかろうか。『古事記』の再評価がなされるのは江戸中期以降である。
平安末期の『多神社注進状』は樹森(小杜)神社の祭神を「瓊玉戈神命」としているが、同書裏書には「春日部坐神社同体異名也」とあり、天照大日孁神の皇子神だという。
この春日部坐神社についてはよくわからないのだが、『延喜式神名帳』河内国高安郡の項に天照大神高座神社(大阪府八尾市教興寺)があって元の名を「春日戸神」と称したといい、同郡に春日戸社坐御子神社(八尾市山畑の佐麻多度神社境内社山畑神社が比定社)もある。また同郡恩智神社(八尾市恩智中町)の境内社天川神社は「春日辺神」を祀る。
なお、文安三年(1446)の『和州五郡神社神名帳大略注解』は『多神社注進状』を引用した上で、小杜神社と同体とされる春日部坐神社を河内国讃良郡の式内高宮大社祖神社(大阪府寝屋川市高宮の大杜御祖神社)のこととし、祭神は天児屋根命だとする。
多神社には安萬侶の姿とされる神像が伝わる。これは昭和に建て替えられる以前の小杜神社旧社殿には入らない大きさであり、それをもって、小杜神社の祭神である安萬侶は古くから多神社に合祀されてきたともいわれる。現在、安萬侶は多神社の相殿神としても名を列ねている。このことは、小杜神社本来の祭神が安萬侶でないことの証左ともなりそうだ。
安萬侶の社
太安萬侶の系譜ははっきりしていないが、『阿蘇家略系譜』などは壬申の乱に功のあった多品治の子とする。生年は不明。和銅五年(712)『古事記』を撰録、献上。霊亀元年(715)従四位下に叙され、翌年には太(多)氏の氏長となっている。のち民部卿に任じられ、養老七年(723)死去。
古事記撰上千二百年にあたる明治四十四年(1911)、従三位を追陞される。
なお、『弘仁私記』序によれば、安萬侶は『日本書紀』編纂にも関わっているというが、他書にその記録はない。
この記事を書くにあたり、小杜神社を五年振りに再訪した。
五年前の平成二十三年(2011)にはなかった、「古事記」と刻んだ碑と境内案内図。さらには「古事記献上千三百年記念 太安万葉侶卿」の立派な碑もある。これらは前回訪問の翌年に建てられたものらしい。少少荒れた印象のあった五年前とはいささか雰囲気が違っている。
社殿の印象も随分違うような気がして五年前の写真を見てみると、色が違う。鮮やかな朱に塗られていた。
昭和五十七年(1982)の『式内社調査報告』によると、本殿の西後方に小祠があり、これが戦前に建て替えられる前の本殿だったということだが、この小祠は現存しない。本殿の数メートル西の草叢に古びた石燈籠が一基あり、この辺りにあったものと思われる。
県社となった頃は境内が整備され立派な様相だったというが、その面影はない。当時あった拝殿・幣殿・神饌所は取り壊され今は本殿のみがぽつんと残る。
安萬侶の墓
小杜神社の東南およそ七百メートル、字松ノ下に小さな塚がある。かつては大きな松の木があったが、洪水で流れてしまったという。この「松ノ下古墳」は太安萬侶の墓であり、付近には安萬侶の邸宅があったという言い伝えがある。塚の南の西新堂の集落では、葬列が塚の前を通る際には注連縄を奉って安萬侶の霊を慰める慣習が明治の初めまで残っていたという。
塚は水田の中にある。稲刈り前だったため近くまで寄ることは叶わなかった。実る稲穂の中に円墳状の小丘が頭を覗かせている。
本当の安萬侶の墓は昭和五十四年(1979)に奈良市此瀬町で発見されている。平成二十三年(2011)、その遺骨の一部を多神社の宮司が譲り受けることが決まり、古事記献上千三百年に合わせて、松ノ下の塚に納めて分骨墓とし、記念碑を建てようと計画したが実現しなかった。碑は小杜神社境内に建てられ、遺骨は宮司宅で保管されている。
参考文献:
◇『大和国十市郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1879
◇『十市郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1891
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録』 皇典講究所 1902
◇伴信友「神名帳考証」『伴信友全集 第一』 国書刊行会 1907
◇奈良県(編)『大和志料 下巻』 奈良県教育会 1914
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇並河永ほか(編)『五畿内志 中巻』(日本古典全集) 日本古典全集刊行会 1930
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第三巻 京・畿内 3』 皇學館大学出版部 1982
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