古事記の誕生
天武天皇の舎人(側近くに仕え警固や雑務に従事する下級官吏)に稗田阿礼という者がいた。年は二十八歳、優れた記憶力の持ち主で、一度目にした文字は一字一句違わずに諳んずることができ、一度耳にした言葉は心に刻んで決して忘れることがなかった。かねてより天武天皇は、時を経る中で諸家の伝承する歴史に誤りや嘘が混じるようになっており、このままでは正しい歴史が失われてしまうだろうと懸念を抱いていた。正史を記録に残さんと決意した天武は、阿礼をして歴代天皇の系譜と事績、古い伝承を「誦習」せしめた。しかし編纂は実現しないまま、時が過ぎる。
元明天皇の代となった。和銅四年(711)九月、元明は太安萬侶に、天武が憶えさせた旧辞を稗田阿礼に誦ませ、それを筆録するよう命じた。
安萬侶は苦心の末に記録を完成させ、翌年一月、天皇に献上した。
『古事記』序文には、その成立の経緯が以上のように記されている。
稗田の古社
大和郡山市の稗田環濠集落南東部に、稗田阿礼を祀る賣太神社がある。賣太神社 【めたじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 奈良県大和郡山市稗田町宮ノ森319 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 稗田阿礼命【ひえだのあれのみこと】 天宇受賣命【あめのうずめのみこと】(副斎神) 猿田彦神【さるたひこのかみ】(副斎神) |
創建 | 不詳 |
延喜式神名帳 | 大和國添上郡 賣太神社 |
社格等 | 旧県社 |
別称/旧称 | 三社明神 十三社明神 賣田神社 |
賣太神社は江戸時代には「三社明神」と称した(『大和志』)が、明治七年(1874)の神社明細帳では十社加わり「十三社明神」となっている。その後、同十二年(1879)の明細帳では「賣田神社」となっているが、「田を売る」という名を忌み、昭和十七年(1942)に現社名となった。
昭和十九年(1944)に村社から県社に昇格。
式内賣太神社の比定社で、現在は稗田阿礼を主斎神とし、副斎神に天宇受賣命と猿田彦神を配するが、元来の祭神は不明。
式内賣太神社について、江戸中期の『神名帳考証』は「賣太」を「ヒメタ」と訓じ、「今水屋社素戔烏尊也賣太社道主命素戔烏荒魂以此水神云水屋」とするが、「水屋社」というのが現在の賣太神社のことなのか、別の神社なのかわからない。
『神社覈録』も「比女多」と訓ませ、在所は不詳とする。祭神は比賣陀君の祖と推定し、『古事記』の「菟上王者、比賣陀君之祖」という記述を引く。
『特選神名牒』もやはり訓みを「ヒメタ」とし、「社伝祭神稗田阿礼と云るは稗田村に社ありて稗田と賣太と音近きよりの附会と思しければ信がたし(中略)比賣陀君氏の此地に住て菟上王を祭れる社なるべし」とする。
『大和志料』も訓みは「ヒメタ」、「在所祭神詳カナラズ、祭神ハ比賣陀氏ノ祖菟上王カ」とし、稗田の現賣太神社を比定するのは「拠ナシ」と疑問を呈している。
社名については「比賣太」の「比」が脱落したものとする見解は諸書に一致している。
県社となった昭和十九年(1944)、神域が拡張され、社殿が建て替えられている。古事記撰上千二百三十年を記念したもの。
現在の本殿・拝殿は東面するが、旧本殿は現在の位置よりおよそ二十五メートル北東に南面して建っていた。石壇と狛犬が今も残る。
明治十二年(1879)の神社明細帳には境内社として春日神社(天児屋根命)・八柱神社(日本武命 須佐之男命 天鈿女命 赤阪比古神 大己貴命 少彦名命 神波多神 宅布世神)・厳島神社(市杵島姫命)・山王神社(大山津見命)の四社が挙げられているが、同二十四年(1891)明細帳の附図では旧本殿を囲う塀の中、旧本殿の向かって右(東)に若宮二社と、東の離れた場所に弁財天社が描かれている。
現在確認できる境内社は一社のみ。祠の中には岩が祀られているが、祭神はわからない。
拝殿の左(南)に鏡池という池があり、社が祀られていたような形跡が残る。厳島神社(弁財天社)がここにあったものと思われる。
物語の神
稗田阿礼は謎の人物だ。『古事記』序文以外にその名を記すものは存在しない。性別すらはっきりしておらず、舎人という記述から男性と考えるのが自然だが、女性説も根強い。大和国添上郡稗田に根拠を持つ稗田氏は猿女君氏の支流といわれる。
猿女君は伊勢を本貫とし、天鈿女命の後裔と称する氏族で、大嘗祭や鎮魂祭といった宮中祭祀において神楽舞などを奉仕する職掌を担ったという。
『神社覈録』などが賣太神社の祭祀氏族とする比賣陀君というのは一説に猿女君の別名とされる。「稗田」は「比賣陀」の訛で、比賣陀君(猿女君)の一部が大和に移住して稗田氏を称したのだという。
賣太神社の本来の祭神は『神社覈録』がいうように稗田(比賣陀)氏の祖神と考えるのが妥当だろう。稗田阿礼が祭神とされたのは『古事記』が脚光を浴びるようになる近世以降のことと思われる。本居宣長が『古事記伝』を著すまで、『古事記』は忘れられた史書だった。
ともあれ、現在賣太神社は稗田阿礼命を学問・知恵の神、また物語の神として祀る。配祀の天鈿女命は猿女君稗田氏の祖神、同じく配祀の猿田彦命はその夫神である。
毎年八月十六日に行われる阿礼祭は、稗田阿礼の遺徳を偲び「お話の神様」として顕彰すべく、奈良県童話連盟の発起で昭和五年(1930)に始まったもの。子供たちによって「阿礼さま音頭」が奉納され、童話の読み聞かせなども行われる。
御朱印を拝受すると、二枚の卵煎餅をいただいた。「あれさまのちえせんべい」と「うずめさまのふくせんべい」。
参考文献:
◇度会延経『神名帳考証』 松岡雄淵書写(西尾市岩瀬文庫所蔵) 1760
◇『大和国添上郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1879
◇『添上郡神社実測図並見取図』 奈良県立図書情報館所蔵 1891
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録 上編』 皇典講究所 1902
◇伴信友「神名帳考証」『伴信友全集 第一』 国書刊行会 1907
◇奈良県(編)『大和志料 上巻』 奈良県教育会 1914
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇並河永ほか(編)『五畿内志 中巻』(日本古典全集) 日本古典全集刊行会 1930
◇次田昌幸(訳注)『古事記(上)』 講談社学術文庫 1977
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第二巻 京・畿内 2』 皇學館大学出版部 1982
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Commenti / コメント
コメント一覧 (4)
コメントありがとうございます。
石見物部神社の猿女の鎮魂祭、いつかこの目で見ておきたいと思っているもののひとつです。
「物部」は私の知的探求の核であると言って良いですが、浅学の身、このブログでも意図的に避けているところがあります。いつかは真っ正面から取り組まなければならないと思ってはいるのですが。
木越さんのお眼鏡に適う内容のサイトとはとても言えませんが、今後ともよろしくお願いいたします。
古事記神話の構造をザックリいうと高天原の2度の地上への介入がその構造の中心となっている。1度目はイザナギとイザナミがオノゴロ島を作り、国生み神生みを行い、次にイザナミのあとを継ぎスサノオが
根之堅洲国で帝王となる。第二の高天原の介入はアマテラスによる九州への天皇の始祖の派遣とそれに続く天皇を擁する日本の話でこれは今も続いている。
これらの2度の高天原の介入に挟まれた形で出雲神話がある。天皇の権威を高めるのに出雲があまり役に立たないのに古事記で大きく取り上げられている。その神話の構造の歪さに我々は心を惹かれる。
たとえば天皇も大国主も大刀(レガリア)の出どころはスサノオでありその権威の根源を知りたくなってしまう。そうなると島根県安来市あたりの観光をしてしまいたくなる。
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