自凝島神社 鳥居

自凝島神社 鳥居



イザナギとイザナミ

 世界に天と地が初めて現れ、天上の高天原では天之御中主神あめのみなかぬしのかみを始めとして多くの神神が生まれた。その最後に生まれたのが男神伊邪那岐神いざなぎのかみと女神伊邪那美神いざなみのかみだった。
 現れたばかりの陸地はまだ形が定まらず、くらげのようにゆらゆらと海の上を漂っていた。神神はイザナギとイザナミに天沼矛あめのぬぼこを授け、漂う陸地を固めて国土を創るように命じた。二柱の神は天地をつなぐ天浮橋あめのうきはしに立ち、矛を突き下ろして海をかき混ぜ始めた。潮がぐるぐると渦を巻く。
 ひとしきりかき回したのちに矛を引き上げると、その先から滴り落ちたものが積もり重なって、島ができあがった。
 二神は淤能碁呂島おのごろじまと名づけたその島に天降り、天之御柱あめのみはしらという太い柱と八尋殿やひろどのという広大な神殿を出現させた。
 住居と定めた八尋殿に入ると、イザナギはイザナミに問いかけた。
「そなたの体はどのようになっているか?」
 イザナミは答えた。
「わたしの体にはでき上がっていないところがひとつあります」
 それを聞いたイザナギはこう言った。
「わたしの体にはでき過ぎて余ったところがひとつある。わたしの余ったところでそなたの足りないところを刺し塞いで国を生もうと思うのだがどうだろう」
「それはいいですね」
 イザナミが言った。
 二神は天之御柱の前に立ち、イザナギは左から、イザナミは右から廻って、巡り逢ったところでイザナミが先に声をかけた。
「まあ、なんていい男!」
 それに続いてイザナギが
「おお、なんていい女!」と言う。
 そうして二神はまぐわい、子を生んだ。最初の子は水蛭子ひるこで、ぬらぬらとして形を成さない子だったので葦舟に乗せて流した。次に生まれた淡島あわしまもふよふよと浮かぶ泡の塊のようなでき損ないの島だった。
 望むような子が生まれないため、二神は高天原の神神に伺いをたてたところ、女から先に声をかけたのが原因だとわかる。
 また同じように柱を廻り、今度はイザナギが先に言葉を発し、まぐわった。
 そうして生まれたのが淡道之穂之狭別島あわじのほのさわけのしま(淡路島)で、続いてイザナギとイザナミは多くの島島を生み、大八島国おおやしまのくにと称ばれる日本の国土が形作られたのだった。

オノコロ島

 淡路国三原郡下八太しもはた村(現南あわじ市榎列下幡多)には、イザナギとイザナミの国生みの舞台となったオノコロ島と伝わる場所がある。
 たまねぎ畑が広がる平地に小丘陵がぽつんとある様は、確かに陸に浮かぶ島のようにも見える。一説には、古代の三原平野は海水が入り込む入江で、実際に島であったともいう。
 その磤馭盧島おのころじまにイザナギとイザナミを祀る社が鎮まる。一際目を引く巨大な朱の鳥居が目印。昭和五十七年(1982)にこの鳥居が建てられた当時は日本三大大鳥居に数えられた。

自凝島神社 社号標

自凝島神社 社号標



自凝島神社
【おのころじまじんじゃ】
鎮座地兵庫県南あわじ市榎列下幡多磤馭盧島415
包括神社本庁
御祭神伊弉諾尊【いざなぎのみこと】
伊弉册尊【いざなみのみこと】
菊理媛命【きくりひめのみこと】(配祀)
創建不詳
社格等旧無格社
別称/旧称磤馭盧島神社


自凝島神社 拝殿

自凝島神社 拝殿



 自凝島神社の創祀時期は不明。
 元禄四年(1691)に碧湛海心という禅僧が著した『淡国通記』によると、元は社殿がなく、松の木を神体とし、自凝島大明神と称してイザナギ・イザナミを祀っていた。自凝島神社の南西にある大榎並おおえなみ村(現南あわじ市榎列大榎列)威光寺の僧侶が社僧として祭祀を司っていたらしい。ある時、社僧の一人と下八太村の村長が協議し、神体の松を伐って寺院を建てたところ、神罰が降り二人とも死んだ。人びとは非常に畏れ、大榎並村によって小社が建てられたという。
 その後も威光寺が別当寺として社域を管理している。また、社が破損した際には大榎並村が修復・新造にあたったということで、下八太にありながら大榎並の所有下にあったようだ。
『淡路草』に正徳・享保(1711~1735)の頃榎並により小祠が造営されたとあるが、これが誤記でなければ、初めて社が建てられたことを指すのではなく、建て直されたということだろう。でなければ正徳以前に書かれた『淡国通記』に社建立の記事があるはずがない。

自凝島神社 本殿

自凝島神社 本殿




「はじまりの地」の伝承

 大鳥居をくぐり石段を上ると、正殿手前に「鶺鴒石せきれいいし」がある。
『日本書紀』の一書によると、夫婦の交わりの方法がわからないイザナギとイザナミのもとにセキレイのつがいが飛んできて交尾を始めたので、その方法を知ったという。そのセキレイが止まったのがこの鶺鴒石だと伝える。文化八年(1811)の『淡路草』に鶺鴒石についての記述があり、少なくともこの頃にはあったことになるが、元禄四年(1691)の『淡国通記』や享保十五年(1730)の『淡路常盤草』では鶺鴒石に触れていない。

自凝島神社 鶺鴒石

自凝島神社 鶺鴒石



 正殿の向かって左奥に摂社八百萬神社。イザナギ・イザナミが生んだ多くの御子神を祀る。

自凝島神社摂社 八百萬神社

自凝島神社摂社 八百萬神社



「永禄十一年七月」の銘がある、半ば欠損した石燈籠の柱石が社域内にあると『淡路草』は記し、太閤秀吉の側室が献納したものとの言い伝えがあるとする。
 永禄十一年(1568)七月は織田信長が上洛を開始する直前であり、秀吉はその麾下で頭角を現しつつあった頃だ。そんな時期に秀吉の側室が淡路に献燈するというのは無理があるように思う。

 自凝島神社の西、旧大榎並村にも国生みにまつわる伝承地がある。
 かつて天浮橋と称する立派な石の反り橋があったが、何者かに持ち去られ、代わりに小さな石橋を置いたという。この橋は川が氾濫すると水に浮かぶと言い伝えられていた。今はその場所に天の浮橋分社がある。
 もうひとつ、葦原国分社もあり、かつては蘆が生い茂っていた。アメノヌボコで地上世界を探った時に矛先がこの場所の蘆に触れたと伝える。

 淡路島にはオノコロ島の伝承を持つ場所が他にもある。
 神話と伝説に彩られた淡路島。改めて、じっくりと時間をかけて旅をしたい場所だ。

自凝島神社 御朱印

自凝島神社 御朱印




参考文献:
◇碧湛『淡国通記』 尼崎市立中央図書館所蔵
◇仲野安雄『淡路常盤草』 淡路新聞社 1887
◇藤井容信/藤井彰民『淡路草』 名著出版 1975
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典28 兵庫県』 角川書店 1988
◇暁鐘成『淡路国名所図絵』(版本地誌大系5) 臨川書店 1995


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国生みのはなし ~イザナキとイザナミ~
天と地が、はじめてできたころのお話です。天空にある高天の原に、イザナキとイザナミという神が生まれました。
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