宝厳寺 鳥居と寺号標

宝厳寺 鳥居と寺号標



神と仏の島

 都久夫須麻つくぶすま神社から「舟廊下」の称がある渡廊を進む。その名は、豊臣秀吉が御座船とした日本丸の船櫓を用いて造営されたという伝承に因む。

宝厳寺 舟廊下

宝厳寺 舟廊下



 廊下の先は宝厳寺の観音堂。西国三十三所三十番札所として千手千眼観世音菩薩を安置する。

宝厳寺 観音堂

宝厳寺 観音堂



 宝厳寺と都久夫須麻神社は明治までは一体であり、その境界線がどこなのか傍目にははっきりわからない。
 草創以来神仏習合の霊場として栄えた竹生島は、神仏判然令の発布により、仏教色を廃し、祭神を記紀の神に改め、神社となるよう命じられる。しかし、本尊弁才天のみならず観音霊場としても信仰を集めていたこともあって反発の声は大きく、廃寺は免れて神社と寺院に分かれることとなり、弁才天堂を都久夫須麻神社の施設とし、観音堂ほかを宝厳寺の所有として敷地を分割した。
 弁才天堂が都久夫須麻神社本殿となったため宝厳寺は本堂を失い、本尊大弁才天は長らく仮安置の状態であったが、昭和十七年(1942)現在の本堂が建立された。

宝厳寺 本堂(弁才天堂)

宝厳寺 本堂(弁才天堂)




巌金山宝厳寺
【がんこんさんほうごんじ】
所在地滋賀県長浜市早崎町竹生島1664-1
宗派真言宗豊山派
御本尊大弁才天
創建神亀元年(AD724)
開基聖武天皇
開山行基菩薩
別称/旧称竹生島寺 本業寺 竹生島大神宮寺


宝厳寺 鐘楼

宝厳寺 鐘楼



 竹生島は、近江国浅井郡の地主神である浅井姫あざいひめを斎き祀る地として古代から信仰の拠点だった。
 竹生島宝厳寺の創建は寺伝によれば神亀元年(724)。聖武天皇の夢に天照大神が現れ、こう告げたという。
近淡海ちかつあわうみ(琵琶湖)の小島は弁才天の霊地であるので、そこに寺院を建立すべし」
 そこで行基が派遣される。行基は自ら弁才天像を彫り、竹生島に祀った。さらに翌年には観音堂を建てて千手観音を安置している。
 一方、別の伝もあり、承平元年(931)の年紀がある『竹生島縁起』(護国寺本『諸寺縁起集』所収)を下敷きにした応永二十一年(1414)撰述『智福島(竹生島)縁起』では、天平十年(738)に行基が竹生島に霊威を感じて草庵を結び、小堂を建てて四天王を安置したのが始まりとしている。千手観音は天平勝宝五年(753)に浅井郡大領浅井直あざいのあたい馬養うまかいが行基の「薫風」(承平の縁起では「旧風」)を慕って造立したとする。また弁才天奉祀については、延暦七年(788)最澄のもとに弁才天が化現し、「湖中之霊島」すなわち竹生島に住して比叡山を鎮護するという誓約を交わしたのに始まることになっている。

宝厳寺 護摩堂

宝厳寺 護摩堂




境内巡拝

 慶長七年(1602)から翌年にかけて、豊臣秀頼による伽藍整備が行われ、舟廊下・観音堂・唐門および都久夫須麻神社本殿が建てられた。
 観音堂の入口となる唐門は国宝。京都東山にあった豊国廟の極楽門を移築したもの。豊国廟に移される前は大坂城極楽橋の一部だった。現存する唯一の大坂城遺構。

宝厳寺 唐門

宝厳寺 唐門



 唐門から石段を上る。西国三十三所全ての観音分身を祀る奉安殿、天狗堂を経て本堂へ。

宝厳寺 行尋坊天狗堂

宝厳寺 行尋坊天狗堂



 本尊大弁才天は秘仏。六十年に一度開扉される。
 本堂の脇には三龍堂。徳澤惟馨善神・潤徳護法善神・福壽白如善神を祀る。

宝厳寺 三龍堂

宝厳寺 三龍堂



 本堂正面の石段を上ると最も高台に位置する三重塔。文明十六年(1484)建立の三重塔は江戸時代に落雷で焼亡。平成十二年(2000)古絵図をもとに復元再建されたもの。

宝厳寺 三重塔

宝厳寺 三重塔



 三重塔の傍らには雨宝堂。雨宝童子うほうどうじは天照大神の化身とされ、宝厳寺の本山に当たる大和長谷寺はせでらにも本尊十一面観音の脇侍として祀られている。

宝厳寺 雨宝堂

宝厳寺 雨宝堂



 琵琶湖の煌めく水面を見ながらゆっくりと石段を下りる。そろそろ帰りの船が到着する頃だ。

宝厳寺 御朱印 「大辯才天」

宝厳寺 御朱印 「大辯才天」



女神の系譜

 斬り飛ばされた浅井姫の頭が湖に落ちて島となったといういかにも原初的な神話に始まる竹生島の信仰の歴史。
 浅井姫に対する信仰は仏教の流入により弁才天信仰へととって代わり、やがて市杵島姫という別の名で称ばれるようにもなるが、どのように姿を変えても、この島には女神が生き続けてきた。
 女性的な姿で表されることが多く、しばしば女性そのものともとらえられる観音菩薩の信仰が根づいたのも、そのことと無縁ではないように思う。
 竹生島は長らく女人禁制だったにも関わらず、多くの女性の信仰を集めてきた。この地のかつての領主浅井長政の三人の娘たち、とりわけ豊臣秀吉の側室となり秀頼を産んだ淀殿。浅井家滅亡後この地に入った秀吉の正室高台院。竹生島の仏堂社殿復興のために寄進したのは表向きには秀吉や秀頼だが、その影にはこの島の女神に託す彼女らの思いもあったに違いない。
 女性たちの女神への祈りがこの島を守ってきたとも言えようか。

 船の窓から見る深緑の竹生島。岸壁にしがみついているような宝厳寺と都久夫須麻神社。
 こんな孤島に神仏を祀った昔の人びとの心に思いを馳せながら、遠ざかってゆく島影をずっと見つめていた。

竹生島遠望

竹生島遠望



神宿る竹生島へ
 琵琶湖に浮かぶ神の島、竹生島。形を変えつつ連綿と受け継がれてきたその信仰の歴史を辿りながら、古き女神の影を追う。
 I都久夫須麻神社〔長浜市早崎町〕
湖水に浮かぶ女神の島
 II宝厳寺〔長浜市早崎町〕
観音と弁才天の霊域



参考文献:
◇「竹生島縁起」『群書類従 第一輯』 経済雑誌社 1893
◇大川原竜一「古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立」『文学研究論集 第28号』 明治大学 2008


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戦国武将の竹生島信仰
戦国武将の竹生島信仰

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