神戸の楠公さん
湊川神社は南北朝時代の英雄楠木正成を祀る霊廟として明治五年(1872)に創建された。南朝方に属した皇族や武将を祭神とする建武中興十五社の一つであり、国家の為に功労のあった人臣を祀る神社の社格として設けられた別格官幣社に列した最初の神社。
また生田神社・長田神社という二つの古社とともに神戸三社に数えられる。
湊川神社 【みなとがわじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目1-1 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 楠木正成公【くすのきまさしげこう】 楠木正行卿【くすのきまさつらきょう】(右殿/配祀) 楠木正季卿【くすのきまさすえきょう】(右殿/配祀) 菊池武吉卿【きくちたけよしきょう】(右殿/配祀) 江田高次命【えだたかつぐのみこと】(右殿/配祀) 伊藤義和命【いとうよしかずのみこと】(右殿/配祀) 箕浦朝房命【みのうらあさふさのみこと】(右殿/配祀) 岡田友治命【おかだともはるのみこと】(右殿/配祀) 矢尾正春命【やおまさはるのみこと】(右殿/配祀) 和田正隆命【わだまさたかのみこと】(右殿/配祀) 神宮寺正師命【じんぐうじまさもろのみこと】(右殿/配祀) 橋本正員命【はしもとまさかずのみこと】(右殿/配祀) 富田正武命【とみたまさたけのみこと】(右殿/配祀) 恵美正遠命【えみまさとおのみこと】(右殿/配祀) 河原正次命【かわはらまさつぐのみこと】(右殿/配祀) 宇佐美正安命【うさみまさやすのみこと】(右殿/配祀) 三石行隆命【みついしゆきたかのみこと】(右殿/配祀) 安西正光命【あんざいまさみつのみこと】(右殿/配祀) 南江正忠命【みなみえまさただのみこと】(右殿/配祀) 滋子刀自命【しげことじのみこと】(左殿/配祀) |
創建 | 明治五年(AD1872) |
社格等 | 旧別格官幣社 別表神社 建武中興十五社 神戸三社 |
別称/旧称 | 楠社 |
鎮座地は湊川の戦いが繰り広げられた古戦場であり、楠木正成が足利軍との激戦の末最期を遂げた場所。
本殿中央には主祭神の大楠公こと正一位楠木正成。向かって左の神殿には正成の子小楠公従二位楠木正行と、正成と共にこの地で果てた弟正三位楠木正季以下一族十六柱、そして正成らと運命を共にした肥後の名族従三位菊池武吉。向かって右には大楠公夫人滋子を祀る。
夫人は明治三十九年(1906)本殿の東に建てられた摂社甘南備神社に祀られていたが、昭和二十年(1945)に戦災で本殿共ども焼失し、同二十七年(1952)の本殿再建により正成と共に奉斎されることとなった。
末社楠本稲荷神社は湊川神社創建以前からこの地に鎮座していた地主神。倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命を祀る。
菅原道真を祀る末社菊水天満神社は明治九年(1876)の創建。社名に冠された「菊水」は勿論楠木家の家紋菊水紋から。正成は後醍醐天皇から菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして下半分を水の流れで隠した。水は楠木氏の氏神建水分神社が水神を祀ることに因むという。
誠忠悲壮 楠木正成
楠木正成は河内国石川郡赤坂の豪族と伝えられる。元弘元年(1331)後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し天皇親政を奪取すべく挙兵。正成はそれに応じて決起した。
後醍醐天皇は敗れ、隠岐島に配流となるが、正成は赤坂城に籠って戦い続け、ゲリラ戦法で幕府軍を大いに翻弄した。
正成の奮戦に触発されて各地で倒幕勢力が蜂起する。足利尊氏・新田義貞・赤松則村らの挙兵でついに鎌倉幕府は滅びる。
隠岐から京へ戻る後醍醐天皇を、正成は兵庫で出迎えた。
後醍醐天皇の新たな政権の下で正成は重用され、結城親光・名和長年・千種忠顕と共に「三木一草」と称ばれた。楠木の「キ」、結城の「キ」、名和の官職伯耆守から伯耆の「キ」、そして千種の「クサ」に因む。
建武二年(1335)北条時行討伐のため鎌倉に入った足利尊氏が、乱鎮圧後も鎌倉に居座り、新政に叛旗を翻した。
後醍醐天皇は新田義貞に尊氏征討を命じるも、尊氏は箱根竹ノ下で義貞軍を破り、軍勢を京に進めた。尊氏入京に伴い後醍醐天皇は比叡山に退去するが、正成は義貞や北畠顕家らと共に尊氏を駆逐、尊氏は九州へ落ち延びた。
延元元年(1336)、勢力を取り戻した尊氏の大軍勢が再び京に迫る。義貞を総大将とする朝廷軍は兵庫でこれを迎え撃つ。正面からの激突では勝ち目がないと判断した正成は、後醍醐天皇を比叡山に退かせ、尊氏軍を京に誘い込んで自分と義貞で挟み撃ちにする策を進言するが、坊門清忠らに退けられた。
正成は決死の覚悟で戦場へと赴く。
父子訣別 楠木正行
正成の軍勢が摂津国島上郡桜井に至った時、正成は十一歳の嫡子正行を呼び寄せ、河内へ帰るように命じる。父と共に行きたいと懇願する我が子を、正成は涙を拭いながら諭した。「この正成が死ねば足利の天下となろう。そうなった時、命を惜しんで忠節を捨て、朝敵に降るような不義の振る舞いをしてはならぬぞ。一族郎党が一人でも残っている限り金剛山に立て籠り、最後まで戦って名を後代に遺すのだ。それこそがお前の果たすべき孝行と思え」
正成は後醍醐天皇より賜った菊水紋の短刀を正行に授け、戦場へと向かって行った。これが父子の今生の別れとなる。
父の遺訓を守って立派に成人した正行。父の死から十二年後、河内国四条畷において、正行は北朝軍を相手に激戦を繰り広げ、弟正時と刺し違える凄絶な最期を遂げることとなる。
七生滅賊 楠木正季
新田義貞は二本松と和田岬に陣を敷いて足利尊氏自ら率いる水軍に備え、正成は手勢七百を会下山に配置して陸路を進む足利直義を迎え撃った。足利軍は水軍の一部を上陸させて新田軍を背後から突き、挟撃される形となった義貞が東へ撤退した為、正成の軍勢は孤立する。
足利の大軍との十六度にわたる激しい戦闘の末、楠木軍は僅か七十三騎にまで減っていた。
いよいよ追い詰められ、正成と弟正季は自害を決意して残る将士と共に民家に立て籠った。
兄が弟に
「来世では何を願うか」
と問うと、
「七度までも同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼしてくれる」
と答えた。正成は
「ではともに生まれ変わり本懐を遂げようぞ」
と笑い、兄弟で刺し違えて果てたのだった。
義将散華 菊池武吉
肥後の菊池武重は弟武吉と共に新田義貞麾下としてこの戦いに参じていた。武重は足利軍の挟撃で分断され孤立した楠木軍の情勢を案じ、弟に確認しに行くよう命じる。
彼ら兄弟の父菊池武時は九州においていち早く鎌倉幕府に叛旗を翻し、討死している。しかしこれが討幕運動に火を点け、幕府滅亡後、恩賞として嫡子武重に肥後一国が与えられた。正成が武時をして「忠臣第一」と賞賛したことが大きく作用したといわれる。武重・武吉はその恩を忘れていなかった。
武吉が正成らの許に到着した時、既に楠木軍は壊滅状態だった。自刃を覚悟して立て籠った民家に、武吉も共に入る。
共に死ぬことはないと、脱出するよう正成に促された武吉だが、その場を去ることはしなかった。共に死ぬことが、正成の恩義に報いる道だと考えた。
正成らの死を見届けると、武吉も共に果てる。
孤軍血戦 楠木一族
楠木党は血縁と地縁によって固く結ばれた一団だった。楠木軍七百人の将士は悉く運命を共にし、湊川をその血で染めた。
湊川神社に祀られている楠木一族十五柱の最期は次の通り。
- 江田高次 正成とともに自害
- 伊藤義和 敵中に斬り込み討死
- 箕浦朝房 正成とともに自害
- 岡田友治 正成とともに自害
- 矢尾正春 敵中に斬り込み討死
- 和田正隆 正成の介錯をしたのち橋本正員と互いに刺し違えて死す
- 神宮寺正師 正成とともに自害
- 橋本正員 正成の死を見届けたのち和田正隆と互いに刺し違えて死す
- 富田正武 正成とともに自害
- 恵美正遠 正成とともに自害
- 河原正次 正成とともに自害
- 宇佐美正安 正成とともに自害
- 三石行隆 敵中に斬り込み討死
- 安西正光 正成とともに自害
- 南江正忠 正成とともに自害
母子哀烈 楠公夫人
湊川の戦いののち、正成の首は六条河原に晒された。楠木正成という男は足利尊氏にとってかつては同じ志の下で共に戦った間柄である。正成のいくさ振りに敬意を表す意味も込め、尊氏は正成の首を故郷赤坂の妻子の許へ届けさせる。
桜井で父と別れた正行は、無事母の許に帰り着いていた。父の変わり果てた姿を目にして、正行を激しい感情が襲った。持仏堂で自害しようとする正行に、母はこう言った。
「父上がお前を帰らせたのは何故か、よく考えなさい。自らが死んでも、お前が生きて楠木の一族を養い、帝の為に再び兵を起こして朝敵を討てという御遺言を忘れたのですか。こんなことでは父上の名を汚すのみならず、帝のお役にも立てないではないですか」
正行から刀を奪い取り、抱き合って泣いた。
十二年後、正行と弟正時は父の遺言通り、南朝の為に戦い命を散らす。
正成の妻は、故郷の石川郡甘南備に庵を結び、髪を剃って敗鏡尼と号し、夫と子の菩提を弔ってひっそりとその生涯を終えたと伝えられている。
なお、正成の首は楠木家の菩提寺観心寺に葬られた。
《後編に続く》
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