姫路から西ノ京へ
薬師寺の鎮守社休ヶ岡八満宮に隣接する末社孫太郎稲荷神社は、田原藤太秀郷四代の孫藤原頼行が下野国唐沢山(栃木県佐野市)に祀った稲荷社にその濫觴を持つという。頼行後裔の足利孫太郎家綱、あるいは佐野孫太郎義綱が社を再興したことに因んで孫太郎稲荷と称した。その孫太郎稲荷の分霊がのちに播磨国の姫路城下(城内とも)に祀られる。勧請の時期と経緯は定かでない。榊原氏に仕え、主家の姫路藩移封に従って姫路に移った佐野氏が関わっているかもしれない(姫路市夢前町新庄に佐野家の邸が残っている)。
姫路の孫太郎稲荷には不思議な伝承がある。飢饉により民が苦しんだ時、孫太郎稲荷が姫路城の蔵から米を持ち出し、人びとに分け与えた。このことで城主の怒りを買い、城を逐われることになったのだという。この時刀工の三条小鍛冶が仲立ちをし、奈良西ノ京に遷座となった。寛政年間(1789~1801)のことという。
薬師寺 休ヶ岡八満宮末社 孫太郎稲荷神社 【まごたろういなりじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 奈良県奈良市西ノ京町休岡 |
御祭神 | 宇迦之御魂神【うかのみたまのかみ】 |
創建 | 不詳 |
姫路の三条宗近旧蹟
姫路城の南、姫路市豊沢町に孫太郎稲荷がある。姫路から西ノ京に遷った孫太郎社との関係は不明なのだが、遷座に関わったという三条小鍛冶にまつわる話が伝わる。平安の頃、宇佐八幡宮に刀を奉納するため豊前国に向かっていた三条小鍛冶宗近は、播磨国芝原村(現姫路市豊沢町)の辺りで病を患った。この地で静養中のある夜、夢で「宇佐八幡神は先年当国の松原に遷ったので宇佐まで下る必要はない。ここで刀を打って松原の神宮に奉納すべし」との神勅を得た。松原の神宮とは宇佐八幡宮からの勧請と伝える松原八幡神社(姫路市白浜町甲)のこと。しかし相槌を務める者がいないと鍛刀はできない。どうしたものかと思いあぐねていると、都から孫太郎と称す稲荷の神狐が駆けつけた。孫太郎狐の相槌によって一振りの見事な刀を打った宗近は、それを松原八幡神社へ納めたのち、芝原の地で果てた。村人は宗近のために草堂を建て、地蔵菩薩を安置して菩提を弔ったという。この小堂は「鍛冶ヶ堂」と称ばれ、地蔵尊は「刃の宮地蔵」と称して崇敬された。また孫太郎狐はこの地に留まり、井上九郎右衛門という者の屋敷内に長年住みついたという。
現在、孫太郎稲荷社と刃の宮地蔵(鍛冶ヶ堂)が豊沢町の一角に並んで建っている。
これと西ノ京の孫太郎社が繋がるかどうかはわからないが、伝承に三条小鍛冶の祖宗近が登場することから、何らかの関連はあるかもしれない。
参考文献:
◇平野庸脩『播磨鑑』 播磨史談会 1909
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かつては、日本のキツネが暮らしている地域では、人がキツネにだまされたという話は日常のごくありふれたもののひとつだった。それも、そんなに昔の話ではない。キツネに悪さをされた。キツネに化かされた。そういった話は、いまから50年くらい前の20世紀半ばまでは、特にめずらしいものではなかった。ところが1965年頃を境にして、日本の社会からキツネにだまされたという話が発生しなくなってしまうのである。一体どうして。本書の関心はここからはじまる。そのことをとおして、歴史学ではなく、歴史哲学とは何かを考えてみようというのが、本書の試みである。
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