静寂の杜
東大寺大仏殿中門の前を過ぎて鏡池を右に見ながら東へ歩くと、朱の鳥居が現れる。その向こうに参道がまっすぐのびている。ここから先は東大寺の鎮守として創建された手向山八幡宮の神域。
手向山八満宮 【たむけやまはちまんぐう】 | |
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鎮座地 | 奈良県奈良市雑司町手向山434 |
包括 | 神社本教 |
御祭神 | 品陀別命【ほんだわけのみこと】(応神天皇)(中殿) 比売大神【ひめのおおかみ】(左殿) 足仲彦命【たらしなかつひこのみこと】(仲哀天皇)(右殿) 息長帯姫命【おきながたらしひめのみこと】(神功皇后)(右殿) |
創建 | 天平勝宝元年(AD749) |
創祀 | 聖武天皇 |
社格等 | 旧県社 国史現在社 |
別称/旧称 | 東大寺八幡宮 手向山神社 東大寺鎮守八幡宮 南都八幡宮 |
参道に人影はまばら。
やがて楼門が見えてくる。
門をくぐる。
大仏殿周辺の喧騒と打って変わり、八幡宮境内はひっそりと静まり返っている。他に誰の姿も見えない。ここまで足をのばす観光客は多くないのだ。
このたびは
幣も取りあへず手向山
もみぢの錦神のまにまに
幣も取りあへず手向山
もみぢの錦神のまにまに
手向山といえばこの菅原道真の秀歌が名高く、秋の紅葉のイメージが強いが、濃い緑に社殿の朱が映える夏の光景もまた絵になるものだと思う。
ちなみに道真の手向山はここではなく、もう少し北の山城と大和の国境辺りだともいうが、それをあげつらうのは無粋というものだろう。手向山八幡宮の境内にはこの歌を詠む時に道真が腰掛けたと称する石がある。
本殿南の摂社若宮社は大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る。その左右に摂社高良社(大伴健将)と摂社若殿社(菟道稚郎子)が並ぶ。
住吉三柱神を祀る摂社住吉社は室町期のもので、国の重要文化財。
由緒
手向山八幡宮の創建は聖武天皇御代のこと。東大寺大仏殿建立にあたり、その守護神として天平勝宝元年(749)十二月二十七日に宇佐八幡宮より分霊を迎えたもの(『続日本紀』)。宇佐の分社としてはこれが最初となる。一旦平城京南の梨原宮に鎮座したのち、大仏殿近くの鏡池東畔に遷ったと伝える。
治承四年(1180)平重衡による兵火で東大寺もろとも焼亡するが、文治四年(1188)重源上人によって再建。建仁元年(1201)には御神体が快慶の手で新造されている。
嘉禎三年(1237)に現在の鎮座地となる千手院岡への移転が決まり、建長二年(1250)鎌倉幕府執権北条時頼により正遷座。
時代は下り、寛永十九年(1642)の南都大火で社域の多くが焼ける。明暦四年(1658)に仮殿を建立して神霊を鎮祀し、元禄四年(1691)本殿が完成し遷座している。現在の社殿は多くがこの時期に再建されたもの。
創建以来東大寺の鎮守であった八幡宮だが、明治になり、神仏分離政策の下で東大寺から独立する。御神体の快慶作「僧形八幡神坐像」(国宝)は東大寺勧進所の八幡堂に遷されている。
神像は毎年十月五日に一般公開される。これは転害会(碾磑会/手掻会)と称する例祭に合わせたもの。転害会は宇佐からの神迎えの様子を再現したもので、天文八年(1539)までは勅祭として執り行われていた。
戦後、宗教法人法が施行されると、手向山八幡宮は神社本庁ではなく、京都府神職会京都市支部を母体とする神社本教の被包括宗教法人となっている。
参考文献:
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典29 奈良県』 角川書店 1990
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