中小阪の祇園さん
東大阪市下小阪の司馬遼太郎記念館は、作家司馬遼太郎没後五年の平成十三年(2001)、氏の自宅隣に開館した。それとほとんど隣接するように、二つの神社が鎮座している。一つはすぐ西にある下小阪の小坂神社、そして南にあるのが旧中小坂村の鎮守だった彌榮神社だ。
彌榮神社 【いやさかじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府東大阪市中小阪二丁目河原3-22 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 素盞嗚命【すさのおのみこと】 天穂日命【あめのほひのみこと】 |
創建 | 不詳 |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 牛頭天王宮 祇園社 |
彌榮神社は江戸時代まで牛頭天王宮と称した。創建時期は不詳。天正年間(1573~1592)織田信長と石山本願寺の戦いで村ともども灰燼に帰し、慶長五年(1600)に片桐且元により再建されたと伝える。
明治五年(1872)に村社となっている。同年、宝持村の彌栄神社を合祀しているが、同十二年(1879)宝持に復祀している。
鎮座地は東西に長い中小坂村の西寄りの位置で、神社のすぐ西を旧大和川の支流が流れており、西側は土砂の堆積で土地が高く、主に耕作地となっていた。神社より東側が居住地区となっていたが、土地が低かったため南・東・北の三方に堤防を築き、水の流入を防いでいた。村を洪水から守るためにこの場所に祀られたのだろう。
神社の北側は堤の名残りで少し高くなっている。そこは「馬立」と称ばれた場所だという。その名は大坂の陣で奮戦した木村重成という武将に由来する。重成はこの堤に馬を止め、上町台地の大坂城をしばし見つめ、主君豊臣秀頼に別れを告げて、最後の戦いへと、己の死すべき場所へと向かって駆け去ったと伝えられている。
木村重成という男
司馬遼太郎の短編に『若江堤の霧』という作品がある。薬師寺閑斎という、かつては歴戦の勇士で今は豊臣秀頼の御伽衆を務める老人の許を、豊臣家の家宰大野治長が訪れる。治長は閑斎に、木村重成という若者の後見役を依頼する。徳川家康との決戦が目前に迫る中、治長はその若者を一軍を率いる将とする腹積もりだという。閑斎は、何事も芝居がかった美貌の若者の不思議な魅力に将器を見いだす。そして若武者は凄絶な最期を遂げる。
物語は主に閑斎の目を通して、自己演出力に長けた人物として木村重成を描写していく。
確かに、巷間伝わる重成の逸話は芝居の名場面のようにでき過ぎたものばかりで、「芝居気の多い男」という司馬の人物造形は的確だ。
絶世の美男
木村長門守重成は豊臣秀頼の乳母を母として生まれた。つまり秀頼とは乳兄弟だ。大坂冬の陣の時は二十二歳で秀頼とは同年齢と伝えられるが、異説もある。父の常陸介重茲は豊臣秀吉の甥秀次付の家老で山城国淀に十八万石を領していたが、秀次粛清の際に連座して斬首となる。重成の兄も切腹の上梟首、姉は磔刑となった。重成三歳の時のことだ。母と共に近江に逃れた重成だったが、のち召し出されて小姓として秀頼に仕え、やがて秀頼の信頼を得て重用されるようになった。
重成は長身で色白、切れ長の目に力強い眉の凜とした美青年に成長した。物腰あくまで柔らかく、一挙手一投足が常に涼やかで洗練され、大阪城中の女官たちの人気の的となった。
堪忍袋
重成はまだ若く、実戦経験もないために周囲から軽く扱われがちだった。その上、常に物静かで何をされても黙っている重成だったから、外見のイメージも相まって、気弱な臆病者と陰口を叩く者も少なくなかった。女性人気に対するやっかみもあったろうし、賜死した父親のことも無関係とは言えないだろう。その内に同僚の侍たちだけでなく、身分の低い者にすら莫迦にされるようになった。ある時、同朋衆(茶坊主)の某が重成をからかい、扇で重成の顔を打った。さすがの重成も黙って引き下がるまいと周囲に緊張が走る。が、重成は落ち着いた声で
「ここは武士としてお主を斬り捨てるべきなのだろうが、城内で刀を抜けば私もただでは済まない。主君のために捨てるべきこの身をお主ごときのために滅ぼすのは不忠不義だ」
ときっぱりと言って立ち去った。のちに大坂の陣で奮迅の働きを見せる重成に、この時のことを思い出した者たちは天晴れな心構えと感心したという。
初陣
大坂冬の陣が始まる。重成は今福の戦いで佐竹義宣軍を撃退する戦果を上げ、初陣を華華しく飾っている。撤退の際、部下の大井何右衛門の姿がないことに気づいた重成は、引き返して何右衛門を探す。致命傷を負った何右衛門を見つけ、連れて帰ろうとするところへ敵勢が迫る。自分を見捨てるように言う何右衛門に対し、
「ここで見捨てるようなことをするなら初めから助けになど来ぬ!」
と何右衛門の身を他の部下に預け、自ら殿軍となって撤退した。その姿を敵味方とも大いに讃えたという。
気遣い
十二月に入り、両軍ともに疲弊していく中、水面下では和平交渉が始まっていた。そんな中で、重成の持ち場に敵勢が攻めかかってきた。それを見た重成は真田信繁(幸村)の許へ向かい、こう訊ねた。
「寄せ手は六連銭の旗印をはためかせております。中でも二騎の若い武者が真っ先に駆けてきて柵に取りついております。御一族の方とお見受けしますが」
信繁は甥の信吉と信政だろうと答え、
「構わず御討ち取り下され。木村殿と戦って討死したとなればその名も後の世に残り、真田の家の誉れとなりましょう」
と言った。
重成はそれに対して
「何を申されます。一族相分かれての戦い、御心中お察し致します。きっと和睦が成りましょうから、その時は是非御対面なされませ。誰の咎めることがありましょう」
と気遣った。
自陣に戻った重成は、けして二人を鉄炮で撃たぬよう兵士たちに命じたという。
後日、和議が成立し、信繁は甥の二人と晴れて十数年振りの再開を果たした。
使者の面目
大坂冬の陣の和睦が成立した。重成は秀頼の使者として徳川家康の和議の誓紙を受け取る役目を仰せつかった。重成は秀頼の口上を述べる。その姿は堂堂として、居並ぶ徳川家臣の歴歴を感心させた。
さて、家康が指先を刀で刺して血判を捺すのだが、血が十分に出ず、判が薄かった。
「これでは薄くてよく見えませぬ」
と重成は言い放つ。
列座の面面は無礼だと騒然となるが、家康が制し、
「年をとって血の巡りが悪うなった」
と言ってもう一度捺して渡した。
受け取った重成は誓紙をしっかりと確認し、落ち着いた所作でそれを文箱に納めると、悠然と退出した。
家康は
「若いのになかなかの男だ」
と重成の堂堂たる使者振りを褒めたという。
感状
講和後、秀頼は武将たちに褒美を与えた。重成には正宗の脇差と感状が与えられた。重成は
「有難きことにございます。されど此度のことはこの長門一人の功名ではございません。お預かりした将士が命懸けで戦い、また他の諸将の皆様のお力添えがあってこそのこと」
と謙遜し、さらに
「感状は他家に奉公する上で役立ちましょうが、二君に仕えることのない私には無用のものです」
と言って褒美を受け取らなかった。
人びとは重成こそ真の忠臣と褒め称えた。
節制
夏の陣の跫が近づくさ中、食が細くなった重成。落城を目前にして不安で食事が進まないのかとある者が問うと、「昔、後三年の役の折、末割四郎惟弘という臆病者がいて、食い物が喉を通らず、首を斬られた時に喉から食い物が出てきて恥を晒したといいます。私も討ち取られた時、臓物が見苦しくないよう慎んでおるのです」
と重成は答えた。
首実検
大坂夏の陣がついに始まる。最後の出陣前夜、重成は湯に入り、髪を入念に洗い、髪と兜に香を焚き染めた。そして小鼓を打ち、謡曲を謡って心を澄ます。
慶長二十年(1615)五月六日、木村重成は若江堤で井伊直孝隊と激闘の末、討死。二十三歳だった。
重成の首は家康の前に差し出された。
「憐れな。討死覚悟で出陣したのじゃな」
家康はそう呟いた。
見ると、兜の緒の結び目の端が短く切られ、容易に解くことができないようにしてあった。命が尽きるまで兜を脱がない、そんな悲壮な決意が思いやられた。
しかも、その首からは仄かな香りが漂っている。最期を美しく飾りたい。美意識に生きた重成らしい配慮だった。
露と散る
木村重成の逸話はそのどれもが美しく、人の心を打つ。その多くは後世の創作なのだろう。重成の事績で史実と認められるものはほんの僅かしかない。冬の陣今福の戦いで戦功を上げ、和議の使者として徳川秀忠の誓紙を受け取り(家康ではなく、秀忠である)、夏の陣若江の戦いで討死。史実と確定しているのはそれだけだ。出自・生年すらもよくわかっていない。
それでもこれほど多くの逸話が語られるのは、彼の閃光のような生き様が人びとを魅了したからに他ならない。作り話であっても、そこには重成の本当の姿が投影されているはずである。
重成が最期に身につけていたと伝えられる刀がある。茎に金象嵌で「道芝露 木村長門守」と入っている。「道芝の露」とは、路傍の草についた露は払えばすかさず落ちることから刀の斬れ味を表した言葉だが、重成にとっては、露のように儚く消える覚悟を示した言葉でもあったに違いない。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇司馬遼太郎「若江堤の霧」『おれは権現』 講談社 1982
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇高橋圭一『大坂城の男たち 近世実録が描く英雄像』 岩波書店 2011
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