子守勝手明神
河内国若江郡の北小坂村は、豊臣秀吉の許しを得た西堤村の人びとによって新たに開拓された。その鎮守社として大和吉野より子守勝手明神を勧請したのが現在の小坂神社である。小坂神社 【こさかじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府東大阪市下小阪三丁目長瀬5-43 |
包括 | 単立 |
御祭神 | 天水分神【あめのみくまりのかみ】 國水分神【くにのみくまりのかみ】 受鬘神【うけのりのかみ】 |
創建 | 天正二十年(AD1592) |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 子守勝手明神 小坂子守宮 |
天正二十年(1592)豊臣秀吉の許しを得て、小坂の北の西堤村から十八軒の家がこの地に移り住み、北小坂村と称した。新たに開いた農地が水に恵まれ作物が実るよう、吉野の子守明神(吉野水分神社)と勝手明神(勝手神社)を迎えて小坂神社は創建された。
子守・勝手の両神は夫婦神とされる。子守神が女神、勝手神が男神である。
子守神の本来の名は「水分」という。「くまり」は「配り」であり、農業に欠かせない水の分配を司る神である。「みくまり」が「身籠り」「御子守」に変化し、子授け・安産の神、子供の守り神としても信仰されるようになった。
その配偶神である勝手神は「勝」の字から勝利の神、軍神ともされ、武士に篤く信仰されたが、一説に「勝手」は出入口を意味し、分娩を司るともいう。
つまり、一体としての子守勝手明神は生命の誕生と生育を見守る神である。
能の『嵐山』には両神が登場する。帝から嵐山の桜の様子を見てくるよう命じられた勅使が、花守の老夫婦に出会う。桜の木の下を清め、花に礼拝する二人の姿を見て何をしているのかと訊ねると、嵐山の桜は吉野から移植した神木であり、木守明神・勝手明神が降臨するのだと答える。その力によって、嵐山の名を持つこの地においても、桜は風に散ることなく咲き誇るのだと語り、そして自分たちがその神であると明かして飛び去る。その夜、木守・勝手の神が現れ、舞を舞う。さらに金色の光とともに吉野の蔵王権現が顕現し、蔵王・木守・勝手の三神が同体であることを告げて、花も盛りの春を寿ぎ、世の栄えを祝福する。
葦の密生する湿地を切り拓き、日照りや水害に苦しみながら田を耕した村の人びとにとって、生命の神への祈りは切実なものだったに違いない。
なお、かつて境内に生えていた葦はみな片葉であり、諸病に効くとされた。「花の下坂名所がござる、宮に片葉の葦ござる」という俗謡はこの神社のことだという。
北小坂村は寛永十年(1633)に下小坂村へと名を改めている。
下小坂村の子守勝手明神は明治五年(1872)に村社に列し、小坂神社に改称する。
境内には三間社の末社合祀社があり、白龍稲荷大神・金刀比羅宮・豊栄大神を祀る。『大阪府全志』には末社として琴平神社のみが記されている。
金峯神社
小坂神社の北西に小さな祠がある。扁額に「金峯神社」とあり、「行者神変大菩薩」と刻んだ石標が立つ。吉野の金峯神社からの勧請だろうか。きちんと手入れされており、大切に祀られていることが見てとれる。吉野金峯神社は吉野山の地主神である金山彦神、一名金精明神を祀る。一説には、吉野山の神が奥宮の金峯神社、中宮の水分神社(子守神社)、下宮の勝手神社に分かれたともいう。
金精神はしばしば男根の形で表される。男性の生殖力を神格化したものだろう。子守神・勝手神と同じく、やはり生命の神である。
能『嵐山』でも語られる通り、子守神・勝手神は蔵王権現と一体の神である。そして金精神もまた蔵王権現の本体ともいうべき存在である。
下小阪の金峯神社と小坂神社の関係はわからないが、近くに祀られているのは偶然ではないだろう。直接の関係はないとしても、小坂神社の崇敬者などによって意図を持ってここに祀られたものと想像できる。
子守・勝手・金精の三神、すなわち蔵王権現の溢れ出る生命力への信仰は、水田が消え失せ住宅が密集する現在の下小阪の地にもしっかりと息づいているようである。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
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