大蛇の夫婦
河内国丹南郡の狭山池には大昔から雌の大蛇が棲んでいたという。一方、石川郡喜志(現富田林市)の粟ヶ池には雄の大蛇がいて、夫婦の間柄だった。この雌の大蛇、毎夜夫のもとに通うのだが、その巨体で田畑の作物を薙ぎ倒し、運悪くそこに居合わせた人や牛馬を丸呑みにしながら行くものだから、人びとは困り果てていた。
大蛇を退治しようという血気盛んな若者たちもいたが、祟りがあっては大変と年寄りたちは制止した。話し合いの末、夫の大蛇を狭山池に迎えて一緒に棲んでもらおうということになった。祠を建て、粟ヶ池の大蛇をそこに導いた。村人たちは供物を絶やさず祭祀を続け、以来田畑が荒らされることはなくなったという。
その祠――龍神社は、少なくとも二度の遷座ののち、現在は狭山池の北西岸近くの石垣を積んだ小島に祀られ、池を守り続けている。
龍神社 【りゅうじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府大阪狭山市岩室2439-1 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 水波能売命【みずはのめのみこと】 天水分神【あめのみくまりのかみ】 国水分神【くにのみくまりのかみ】 |
創建 | 不詳 |
社格等 | 旧無格社 |
別称/旧称 | 龍宮 善女龍王社 龍王社 龍王神社 水分神社 |
雄の大蛇が棲んでいた粟ヶ池は『日本書紀』にある和邇池にあたるといわれる。その西には水神を祀る美具久留御魂神社が鎮座し、同社の創祀伝承にも大蛇が関わる。
夫が棲んでいたのは同じ富田林市廿山の黒子池(九郎五郎池)や岸和田市の久米田池とする伝承もあるようだが、いずれも人工の溜め池であり、それぞれに蛇あるいは龍にまつわる伝説が存在する。それらは池の鎮守として水神が祀られたことにより生まれたものだろう。
龍神の淵
狭山池は記紀にも記述のある日本最古のダム式溜め池で、七世紀前半の築造と推定されている。最も古い堤の下から全長約六十メートルの木製の樋管が見つかり、年輪年代測定によって西暦616年に伐採されたものと判定された。奈良時代の行基、鎌倉時代の重源によるものをはじめ幾度もの改修を経て、千四百年後の現在まで周辺地域に灌漑用水を供給し続けてきた。
昭和六十三年(1988)から始まる平成の大改修では、灌漑機能だけでなく、洪水調節機能も有した治水ダムとなった。工事は平成十四年(2002)に完了している。
平成八年(1996)池底の掘削工事の際、龍神社の前方三十メートルの位置の底部に、直径約二十七メートル、深さ約五メートルのすり鉢状のくぼみが発見された。その中央には直径三十センチメートル程の穴があり、陶製の壺が入れられていた。壺には逆さにしたすり鉢で蓋がされていて、針金で固定してあった。その上に卵型の石を載せ、さらに花崗岩の板石を二枚かぶせてあった。壺の中には御神体と思しきものが入っていたらしい。
このくぼみは龍神淵と称し、安政五年(1858)の西除を中心とする大改修の際に掘られたもので、壺に鎮まる御神体は如意宝大龍王であり、同時に池中に石垣を築いて島を造り、堤上にあった善女大龍王の祠(龍神社)をそこに遷している。西除に「永久破損之害」が無いように「守護神雌雄龍王二神」に祈念したと『狭山池龍渕江奉納願文控』にある。西除は水流が集中する場所であるためにたびたび決壊しており、石垣は水勢を分散する効果を狙ったものでもあったようだ。
なぜ淵を掘って沈めるなどという特殊な祀り方をしたのだろうか。それは次のような言い伝えに基づく。
狭山池では毎年八月を過ぎると水を抜いて干していたが、その間、雌雄の龍神は西除にあった二か所の滝壺に移り、春になって水が溜まり始めるとまた池に戻ったという。この滝壺は池の水が堤を流れ落ちることによってできたもので、龍神淵とか龍王ヶ淵とか称ばれていた。元禄七年(1694)の絵図にも描かれている。
安政の改修ではこの淵を埋めることになったが、作業中に怪我人が出て、龍神の祟りだと噂になった。そこで滝壺の代わりとなる淵を新たに造り、祠を池中に祀ったのである。冬の間池の水が抜かれても淵には水が溜まり、龍神はそこにいることができる。淵での漁は禁じられ、常に清浄に保たれていたという。
龍神の祠
前述したように、龍神社は池中に祀られる前に何度か遷座している。最初に祀られた場所がどこで、それがいつのことなのかはわからない。確認されているもっとも古い記録は享和元年(1801)の『河内国名所図会』で、西堤に龍神祠らしきものが描かれている。
享保年間(1716~1736)末の詳細な絵図『狭山池惣絵図』には、もと北堤にあり享保十五年(1730)に狭山藩北条氏下屋敷内に遷された狭山堤神社なども描かれているが、西堤に龍神社の記載はない。この時点では『名所図会』で描かれた場所に龍神社は無かった可能性が濃厚だ。
『西除普請並竜神社之訳』には「善女竜王社」は「往古より西堤ニ小祠在来」していたが、「破滅同様」であったため嘉永六年(1853)「小池辰巳角堤」に場所を遷した旨が記されている。小池というのは狭山池西北の脇にあった池で、時期は不明だが決壊した西除を修復した際に新たな堤防を造ったことで本池と隔てられてできたものとみられる。その小池の巽の方角(東南)に、西堤にあった荒れた龍神祠を遷座し再建したということだ。
これらのことから、享保以後、享和以前に西堤に祀られ、嘉永に小池の傍らに移転し、その五年後の安政に池中に遷って現在に至るということが確認できる。しかしそれ以前の事はわからない。西堤が最初の鎮座地だったのか、それともさらに別の場所から遷座したのか。
それについて、市川秀之氏が狭山堤神社との関連で興味深い仮説を提示している。
狭山堤神社は延喜式神名帳に記されている古社で、狭山池を造営したと伝わる印色入彦命を祀る狭山池の守護神である。この狭山堤神社は明治四十年(1907)に狭山神社(大阪狭山市半田)の境内に遷され同社の摂社となっているが、元は半田村にあり、のちに狭山池北堤に移転し、さらに享保十五年(1730)狭山藩下屋敷の敷地内、明神山と称するところ(池の東岸)に遷宮している。
この遷座は狭山池の支配権の移り変わりと深く関わっている。狭山池の水は周辺の多くの村によって共同利用されており、それぞれ領主が異なるため、長らく幕府が狭山池を直轄支配していた。狭山藩北条氏は狭山池の支配をたびたび幕府に願い出ていたが、享保六年(1721)にそれが認められる。狭山池の鎮守である堤神社を北条氏が自らの屋敷内に取り込んだのは、祭祀の面でも狭山池に対する主導権を有していることをアピールする狙いがあったとみられる。しかしこのような狭山藩の動きに対して周辺村落の間では強い抵抗感があったことが想像される。各村の代表者が主体で行われていた龍神社の祭祀は、狭山池と堤神社を独占しようとした狭山藩への抵抗を示す一つの形として、享保十五年(1730)以後に始められたのではないかというのが市川氏の論である。
平成のダム化工事完了後、雌龍を祀る祠は復旧され、祠の前に龍神淵も再び掘られて、雄龍を納めた壺は元のように沈められた。
龍神社は現在狭山池土地改良区が管理し、毎年六月一日には関係者によって龍神祭がささやかに執り行われている。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇狭山町史編纂委員会(編)『狭山町史 第一巻 本文編』 狭山町役場 1967
◇大阪府神道青年会(編)『大阪府神社名鑑』 大阪府神道青年会 1971
◇秋里籬嶋『河内名所図会』 柳原書店 1975
◇大阪狭山市史編さん委員会ほか(編)『大阪狭山市史 第12巻 地名編』 大阪狭山市役所 2000
◇大阪狭山市史編さん委員会ほか(編)『大阪狭山市史 第5巻 史料編 狭山池』 大阪狭山市役所 2005
◇市川秀之「狭山池龍神の考察」『大阪府立狭山池博物館 研究報告3』 大阪府立狭山池博物館 2006
◇三善貞司『大阪伝承地誌集成』 清文堂出版 2008
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