紀見峠
河内と紀伊の国境にある紀見峠の歴史は古い。南海駅路の新道としてこの峠を越える道が開かれたのは、平安遷都から間もない延暦十五年(796)のこと。
その後空海が高野山を開創すると、京都・大坂からの参詣道として大いに賑わうようになっていった。葛城山脈を越える道としては、この紀見峠越えが最も標高が低く、通行の難が少なかった。紀州を一望できるこの峠を、数多の旅人が往き交った。
慶安元年(1648)に和歌山藩が伝馬所を置くと、柱本村の枝邑として紀見峠新家の集落ができて宿場が栄えた。慶安四年(1651)の『上組在々田畠小物成改帳』によると紀見峠新家は戸数十七戸、人口五十九人、馬二十頭。最盛期には数十軒の茶店や旅舎が軒を連ねたという。『紀伊国名所図会』には活気に溢れた往時の様子が描かれている。
明治三十三年(1900)五条和歌山間の紀和鉄道(現JR和歌山線)が開通し奈良と和歌山が鉄道で結ばれ、さらに大正四年(1915)紀見峠トンネルが完成して大阪高野鉄道(現南海電鉄高野線)が開通すると、峠道を通る高野山への参詣者は激減した。
一方、昭和七年(1932)に峠を越える県道が開通、同三十七年(1962)には国道一七〇号に昇格(のち国道三七一号に編入)し、大阪と紀北を結ぶ主要道路の通過点となるが、昭和四十四年(1969)紀見トンネルが完成しバイパスが開通したことで輸送道としての役割を終え、一般車が通ることはほとんどなくなった。
牛頭天王
河内長野から国道三七一号を南下し、紀見トンネルの手前を旧国道に入る。九十九折の道を進み、紀見峠の標識を過ぎてさらに行くと、やがて柱本の集落にさしかかる。右手に葛城神社の社叢が見えてきた。葛城神社 【かつらぎじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 和歌山県橋本市柱本270 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 素盞嗚命【すさのおのみこと】 |
創建 | 不詳 |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 牛頭天王社 |
紀見峠の麓、旧柱本村の産土神葛城神社は、素盞嗚命を祀り、江戸時代までは牛頭天王社と称した。
社域は鬱蒼とした森に蔽われている。高さ約三十メートルのムクロジの大樹は高知県須崎市白王神社のものに次いで全国二番目の大きさとのこと。
創祀の時期は不明。古老の言い伝えによれば、南北朝期、正平四年(1349)頃の戦火で旧記等を悉く焼失したという。
六十年ごとに社殿の造替、二十年ごとに屋根の葺替えがおこなわれる。現在の本殿は昭和五十五年(1980)に建てられたもの。本殿の脇には境内社の若宮殿と猿田彦神社。
古来神職はおらず、「宮ノ講」という座中が管理してきた。講員十二名が輪番で一年ごとに神主を務める。正月元旦、新たに神主となる者が、大松明二基による先導で神社東側の宮川の滝壺に入り精進潔斎の禊を行う。その後座中により神饌が奉じられ、新年の無事を祈願する。
牛頭天王の神紋である木瓜紋が胡瓜の切り口に似ていることから、村では近年まで胡瓜を食べることがなかったという。
紀州屋根屋
柱本は「紀州屋根屋」と称する独特の技法を持った屋根葺き職人の里としても知られる。農閑期になると村の男たちは組に分かれ、周辺の岩湧山などで刈った山茅を携えて紀伊国内は勿論、河内・和泉・摂津・大和・山城の畿内のみならず、伊勢や播磨までも出張し、屋根の茅を葺き替える仕事をしていた。現在では茅葺き屋根も廃れ、技術を伝承する者は数える程になってしまったという。
人も車も滅多に通らない紀見峠越えの道を歩き、高野山詣での旅人、葛城の山を跋扈する行者、茅束を背負って出掛ける柱本の村人、様様な人たちがこの道を往還していた頃の賑わいを想像してみる。
この道の地下を紀見トンネルが貫き、車がびゅんびゅん往き交っているのが嘘に思えるように、ただただ静かだった。
参考文献:
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典30 和歌山県』 角川書店 1985
◇高市志友ほか『紀伊国名所図会 三編』(版本地誌大系9) 臨川書店 1996
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