竹渕の歴史

 大阪府八尾市の、西に向かって出っ張り、大阪市平野区に囲まれてほぼ飛び地のようになっている地域は、旧渋川郡竹渕(竹淵)村にあたる。竹渕は正式な住所としては現在「たけふち」と訓ませるが、地元では古来「たこち」と称している。『和名抄』は「多加不知たかふち」と訓ずる。
 その南端に、竹渕神社は広い社域を横たえている。

竹渕神社 鳥居

竹渕神社 鳥居



竹渕神社
【たこちじんじゃ】
鎮座地大阪府八尾市竹渕二丁目宮地154
包括単立
御祭神天照大御神【あまてらすおおみかみ】
創建不詳
社格等旧村社
別称/旧称天照皇大神社 天照皇太神宮 竹淵神社


 竹渕という地名は前述のように『和名抄』に見えるほか、「正倉院文書」に含まれる天平期の勘籍(戸籍調査)に「竹淵郷戸主利苅寸(村)主家麻呂 甥船連石立」とあり、かなり古くまで遡ることができる。利苅村主とかりのすぐり船連ふねのむらじはともに渡来系氏族である。竹渕は平野川の水運の要所てあり、船連はその管理に携わっていたらしい。早くから渡来人の集落が開けていたとみられる。
 江戸時代には河内一帯で綿作が盛んとなるが、その中でも竹渕産の綿布は質の良いことで知られていたらしく、「最佳」と『五畿内志』が記している。

竹渕神社 拝殿

竹渕神社 拝殿



創建の伝承

 竹渕神社は江戸時代まで天照皇大神社と称した。明治五年(1872)に近代社格制度の下、村社に列す。
 創祀の時期は不明だが、社伝では遥か古代に遡る。万治三年(1660)に書写されたものを基に、新たに天保十三年(1842)に写したという『竹淵郷社縁起』は、まず神武天皇の東征を語る。
 日向を発ち浪速に上陸した神日本磐余彦かむやまといわれひこ、後の神武天皇は、河内を横切って生駒山を越え、大和に入ろうとするが、長髄彦ながすねひこの軍勢に阻まれる。日下坂くさかのさかで大敗を喫した東征軍は退却するが、長髄彦はなおも追撃する。
 追い詰められた磐余彦は鬱蒼とした竹藪があるのをみとめ、その中に分け入って身を潜めた。長髄彦もその後を追って竹藪に入っていく。藪の中には深い淵があったが、磐余彦の姿はどこにもない。さては淵に飛び込んだかと水の中を部下に探させたが、磐余彦は勿論、兵卒もひとりとして見つからない。
「ながすねひこおそい奉りしに、当郷の大竹藪の中へ入せたまひ、しばらく皇居成給ふを、ながすね彦が目にハふかき淵の中へ入給ふ神変と恐奉りて逃失ける」
『縁起』はそう記す。密生した竹が磐余彦とその手勢の姿を隠してくれたのだった。
 こうして難を逃れた磐余彦はこの地にしばらくの間留まり、兵を休めてから紀伊へ向かう。そして南から大和に入り、東征を果たすことになる。
 この地が竹渕と称ばれるようになったのは上記の故事によるという。竹渕村では六月二十一日と九月九日に竹を伐らないというのもこのことに由来する。
 そして神武天皇が滞在した場所に天照皇太神宮を祀り、宮座を組織して守ってきたのだという。宮座の構成員は「竹原のおとな」と称した。
 また、藪に入ったことで追撃から逃れることができ、兵士たちの心が休まったことから、住み込みの奉公人が休暇をもらって家に帰ることを指す「藪入り」という言葉が生まれたとこの地では言い伝えられている。

竹渕神社 拝殿

竹渕神社 拝殿



 竹渕神社にはいくつかの境内社があるが、『竹淵郷社縁起』はそれに関しても由来を記している。
 
 本殿の向かって右には二社が覆屋の中に祀られている。扁額には「勝手大明神 子安大明神」とある。これについては後醍醐天皇にまつわる伝承を載せる。
 後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げた際に竹渕神社に立ち寄った。企ては失敗し帝は捕らえられるが、二年後に建武の新政が成る。勅願成就の後、帝自ら吉野より子守明神(吉野水分神社)と勝手明神(勝手神社)を竹渕神社境内に勧請したと伝わる。以来「子守勝手日延大明神」として尊崇され、日を延ばして利運を得ることについてはこの神に祈れば願いが叶うという。

竹渕神社末社 子安神社 勝手神社

竹渕神社末社 子安神社 勝手神社



 本殿の向かって左には稲荷社を祀る。扁額は「隆盛大明神」。『縁起』にはこうある。
 昔、お鍋御前と称ばれる老女がこの辺りに住んでいた。ある時農夫のもとにやって来て言うことには、
「永くこの地を住まいとしようと思っていたが、住居がなくなってしまった。ここに稲荷神の社を建ててくれれば、その傍らを安住の場所とし、村に恩を報いよう」
 と。そこで伏見稲荷の社家を召して稲荷を祀った。以来、神供を捧げて神式を執り行うと、田の水面に火が五つ現れて村中の田畑を照らしたという。それは豊御食津神とよみけつのかみの化身であるお鍋が五穀の実りを守っているしるしだと村の者たちは信じ、大いに崇敬した。

竹渕神社末社 稲荷神社

竹渕神社末社 稲荷神社



 大永二年(1522)、日照りが続いて作物が枯れた際に竹渕神社の天照大神に祈ったところ、雨が降って田の苗が蘇った。そこで改めて大山祇命おおやまつみのみこと罔象命みづはのみことを勧請して雨乞いの社として崇めたのだという。
 現在、水速女命みずはやめのみことと八大龍王の社が並んで鎮座している。

八大龍王社 水速女神社

八大龍王社 水速女神社



宮池の龍神

 かつての竹渕神社は周濠に囲まれていた。宮池と称ばれたその碧水には、水鳥が漂い遊び、魚が泳ぎ戯れ、夜になれば水面に星が映じ、蛍が光を競ったという。
 そこには龍神が棲むと伝えられ、釣り人が急死したときなども龍神の怒りに触れたのだと人びとは畏れた。
 幾星霜が過ぎ、神社の周辺は工場や住宅が建ち並び、宮池に汚水が流れ込むようになった。水は澱み、かつての面影は消え失せた。
 竹渕の人びとは美しい神域を取り戻すため、宮池を埋めることに決めた。境内の北西に池の一部を残し、埋め立てて木を植えた。そして新たに社を造営し、宮池の主である龍神を宮池大地主大神みやいけおおとこぬしおおかみとして鎮め祀った。昭和四十四年(1969)のことだ。

竹渕神社末社 宮池大地主神社

竹渕神社末社 宮池大地主神社



竹渕神社 宮池

竹渕神社 宮池



 宮池では釣りをする人が何人かいた。龍神は怒らないのだろうか。

 前述のように、古代の竹渕には水運に従事する氏族が住んでいたといわれる。彼らが水の神を祀ったのが竹渕神社の始まりかもしれない。龍神の伝承はその名残りではないだろうか。
 そんなことを考えながら、宮池の傍らを抜け、釣り人を横目に神域を後にした。

竹渕神社 御朱印

竹渕神社 御朱印




参考文献:
◇内務省地理局(編)『和名類聚抄地名索引』 1888
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇並河永『五畿内志 下巻』 日本古典全集刊行会 1930
◇八尾市立歴史民俗資料館(編)『寺院と神社の成り立ち ―寺社縁起の世界―』 八尾市教育委員会 2001
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇八尾市史編集委員会(編)『八尾市史(前近代) 本文編』 八尾市役所 1988


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