香炉峰
日高く睡り足るも猶お起くるに慵し
小閣に衾を重ねて寒さを怕れず
遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き
香炉峰の雪は簾を撥げて看る
匡廬は便ち是れ名を逃るるの地
司馬は仍お老を送るの官為り
心泰く身寧きは是れ帰する処
故郷何ぞ独り長安のみに在らんや
小閣に衾を重ねて寒さを怕れず
遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き
香炉峰の雪は簾を撥げて看る
匡廬は便ち是れ名を逃るるの地
司馬は仍お老を送るの官為り
心泰く身寧きは是れ帰する処
故郷何ぞ独り長安のみに在らんや
唐の宰相武元衡が政敵の放った刺客に殺害されたとき、宮中に仕えていた詩人白居易は、暗殺者を直ちに探し出して捕らえるべきであると皇帝に上奏した。しかしこのことが越権行為として咎められ、江州司馬に左遷となった。新たな赴任地に建てた小さな草堂の壁に、白居易はこの詩を書きつけた。
日は高く昇り眠りも十分に足りているのだが起きるのが億劫だ
小庵に重ね布団で寝ていれば寒くもない
遺愛寺の鐘の音は枕を傾けて聴き
香炉峰の雪は簾をはね上げて眺める
廬山は名利を避けて住むには相応しい土地だし
司馬は老後を過ごすのに恰好の職だ
身も心も安らかでいられる場所こそが安住の地
何も長安だけが故郷ということもあるまい
小庵に重ね布団で寝ていれば寒くもない
遺愛寺の鐘の音は枕を傾けて聴き
香炉峰の雪は簾をはね上げて眺める
廬山は名利を避けて住むには相応しい土地だし
司馬は老後を過ごすのに恰好の職だ
身も心も安らかでいられる場所こそが安住の地
何も長安だけが故郷ということもあるまい
政争かまびすしい都から遠く離れ、江州廬山香炉峰の麓で悠游自適の日日を送る境遇に安心立命を得たと――強がりを微かに垣間見せながらも――詠っている。
河内国石川郡壺井里(現大阪府羽曳野市壺井)に、廬山の香炉峰になぞらえて同じ名で称ばれた丘がある。そこは「河内源氏発祥の地」として知られ、壺井八幡宮とその摂社壺井権現社が鎮座している。
壺井八幡宮 【つぼいはちまんぐう】 | |
---|---|
鎮座地 | 大阪府羽曳野市壺井別宮605-2 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 誉田別尊【ほむたわけのみこと】(応神天皇) 仲哀天皇 神功皇后 |
創建 | 康平七年(AD1064) |
創祀 | 源頼義 |
延喜式神名帳 | 河内国石川郡 大祁於賀美神社(※一時期) |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 八幡神社 |
河内源氏
かつて香炉峰と称ばれたその地は、東南北の三方を峰が重なり、西に石川の流れを望み、風光明媚にして且つ天然の要害となっている。伝承では神功皇后が夢告によってここに仲哀天皇の陵を築いて「御魂の陵」と称したともいうが、現在では河内源氏の祖である源頼信が居館を構えた地として専ら知られる。香炉峰と称したのも河内源氏本貫地となってからと思われる。
源(多田)満仲三男の頼信がこの地に移り住んだのは寛仁四年(1020)のことという。武勇に優れた人物で、当時武門の最高栄誉職とされた鎮守府将軍に任じられており、長元四年(1031年)には平忠常の乱を平定している。弓の名手として知られる長子頼義も父とともに忠常討伐に参加し、武勇を顕している。
乱鎮圧後、頼義は桓武平氏嫡流平直方の娘を娶り、直方から鎌倉の所領と郎等を譲り受けた。これにより多くの坂東武者を配下に従え、河内源氏が後に東国を支配し、長く「武家の棟梁」と称されるようになる礎を築いた。
永承六年(1051)藤原登任が陸奥国奥六郡の安倍頼良(頼時)に大敗を喫して陸奥守を更迭されると、頼義が代わって陸奥守に任じられ、奥州へと赴任する。天喜元年(1053)には鎮守府将軍を兼任。康平五年(1062)についに安倍氏を滅ぼし、前九年の役を終結させた。河内源氏の地盤は奥州にまで広がり、東国での勢力はより強固なものとなった。
頼義と平直方の娘との間には長子八幡太郎義家をはじめ、次男加茂次郎義綱、三男新羅三郎義光が誕生した。
父の跡を継ぎ河内源氏三代目当主となった義家もまた陸奥守・鎮守府将軍に任官している。
「武士之長者」と称ばれた義家がその地位を確固たるものとしたのは永保三年(1083)に始まる後三年の役である。この戦いを通して河内源氏の東国における支配力はいよいよ盤石のものとなった。義家は知勇兼備の名将として神格化され、数かずの逸話を残している。
義家の四代後が鎌倉幕府を開いた頼朝である。また室町幕府の足利氏、江戸幕府の徳川氏はともに義家四男(三男とも)の義国後裔を称している。河内源氏の系譜は武家の時代を通じて「武門の棟梁」であり続けたのである。
八幡社と権現社
壺井八幡宮は二代頼義が祀ったものと伝わる。 陸奥守となり奥州へ赴くにあたって石清水八幡宮に武運を祈願した頼義が、凱旋後の康平七年(1064)に社殿を建立し、石清水の神霊を勧請したのだという。応神天皇・仲哀天皇・神功皇后の八幡三神のほか、『大阪府全志』には玉織姫と武内宿禰を配祀とある。
明治四十年(1907)から翌年にかけて、通法寺村字延寿谷の村社石丸神社、広瀬村字乾の無格社神明神社、大黒村字丸尾の村社大祁於賀美神社(式内)を相殿合祀、広瀬村字鳩ヶ岡の村社八幡神社、飛鳥村字場山の村社飛鳥戸神社(式内)を境内に移転。
なお、大祁於賀美神社・広瀬八幡神社・飛鳥戸神社は昭和になって旧地に復祀している。
石段の下に「壺井」という井戸がある。
天喜五年(1057)安倍氏を討つために奥州を進軍中、兵馬が渇きに苦しんだ時に、頼義が弓弭で岩を突くと清水が湧き出し、これが北上川となったという伝説があり、この「弓弭の泉」は岩手県岩手町の正覚院(御堂観音)の境内に今も残るが、前九年の役を終えてこの地に戻る際、この清水を壺に入れて持ち帰り、井戸を掘って壺を埋め「壺井」と称したのだという。これが地名の起源になったとされるが、実際には二百年以上遡る承和四年(837)の文書に既に「石川郡壺井郷」と記されているとのこと。
八幡宮社殿の向かって左後方には頼信・頼義・義家の三代を主神とし、義綱・義光を配祀する権現社がある。義家六男(五男とも)の義時が天仁二年(1109)に祀ったもので、河内源氏の宗廟として八幡社とともに篤く崇敬された。六孫王神社(京都市南区)・多田神社(兵庫県川西市)とともに源氏三神社に数えられる。明治五年(1872)に八幡宮の摂社となった。
境内にはクスノキの巨樹が聳えている。その巨大さに圧倒される。樹齢千年ともいわれ、まさに河内源氏草創期から盛衰を見つめて来たことになる。
西側の丘陵にはかつて御旅山古墳と称する前方後円墳があった。後円部には五輪塔が置かれていたらしい。これが前述した「御魂の陵」であると思われる。勿論、神功皇后が築き、仲哀天皇が葬られているという伝承自体は八幡神が勧請されてから生まれたものだろう。
御旅山古墳は昭和四十二年(1967)の土砂採取工事で消滅してしまったが、この時の発掘調査で銅鏡二十二面や鉄器などが見つかった。
また、壺井八幡宮に古くから伝わる銅鏃二十点もこの古墳から出土したものと推測されている。
通法寺と源氏三代の墓
壺井八幡宮の四百メートルほど南、字御廟谷に通法寺址がある。
長久四年(1043)のこと、源頼義が館の東北の仁海谷で狩をしていた時、光り輝く千手観音像を見つける。これを本尊として一宇を建立したのが石丸山通法寺の始まりと伝える。のち荒廃するが、元禄八年(1695)に河内源氏の子孫にして壺井村庄屋兼社家の多田義直が柳沢吉保・僧隆光の仲介を得て、壺井の地が源氏嫡流の発祥地である旨の上表に成功、元禄十三年(1700)、五代将軍徳川綱吉の命のもと、八幡社・権現社とともに再建された。しかし明治六年(1873)に廃寺となり、今は門と鐘楼を残すのみとなっている。鎮守社は石丸神社として存続したようだが、これも前述のように壺井八幡宮に合祀されて消滅した。
通法寺の境内には頼義の墓がある。頼義は自身が見つけた観音像を安置する観音堂の地下に埋葬されたと伝えられる。『河内名所図会』には観音堂内に頼義の御魂舎のあったことが記されており、同書の通法寺の絵図では観音堂とは記されず「御魂舎」となっている。廃寺によって観音堂が取り壊されたのち、その跡地に現在の墓碑が設けられた。
頼信及び義家の墓は通法寺南東の山上、字南山にある。山頂の平坦地に円形の土墳があり、頭頂部に玉垣を巡らしてある。これが義家の墓で、さらに奥の突き当たりに同形式の頼信の墳墓がある。『河内名所図会』の絵図では頼信と義家の墓がどうも逆になっているようだ。著者が取り違えたのか、それとも『図会』刊行以後に伝承の異動があったのだろうか。
悪僧と称ばれた男
頼信墓の脇に小さな墓碑がある。傍らの案内板を見ると「大僧正隆光墓」とある。
隆光は元禄の通法寺・壺井八幡宮再建に関わった大和出身の新義真言宗の僧で、徳川綱吉及びその生母桂昌院の寵を得て、当時の政治に大きな影響力を持った人物である。京都・奈良を中心とした多くの寺社の再建を綱吉に進言したことで、幕府の財政悪化を招いたとされる。一説に、あの悪名高い「生類憐れみの令」も隆光の勧めによるものといわれる。「天下の悪法」を生んだ張本人として、人びとから蛇蝎の如く憎まれたらしい。
隆光は桂昌院、そして綱吉の死後、当然のように失脚し、宝永六年(1709)江戸を逐われて左遷の形で通法寺の住職となった。享保九年(1724)故郷の大和超昇寺で没したのち、通法寺に分骨墓が建てられたのだという。
よく見ると、墓石は縦に亀裂が走り、針金のようなもので固定されている。隆光を嫌う者が傷つけたのだろうか。それはわからないが、雑草に覆われ、あまり手入れされているようには見えない。通法寺歴代住職の墓は義家墓の脇に並んでいるのに、隆光の墓だけは離れた場所の片隅にあるのも何か意図を感じてしまう。
隆光にとって、通法寺という場所は白居易にとっての廬山のように名誉・名声から離れた安住の地だっただろうか。心身ともに安らかでいられる「故郷」たり得たのだろうか。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇秋里籬嶋『河内名所図会』 柳原書店 1975
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇大阪府教育委員会事務局文化財保護課(編)『南河内における中世城館の調査』 2008
大きな地図で表示

十二世紀末、源頼朝は初の本格的武士政権である鎌倉幕府を樹立する。彼を出した河内源氏の名は武士の本流として後世まで崇敬を集めるが、祖・頼信から頼朝に至る一族の歴史は、京の政変、辺境の叛乱、兄弟間の嫡流争いなどで浮沈を繰り返す苛酷なものだった。頼義、義家、義親、為義、義朝と代を重ねた源氏嫡流は、いかにして栄光を手にし、あるいは敗れて雌伏の時を過ごしたのか。七代二百年の、彼らの実像に迫る。
by G-Tools
Commenti / コメント
コメントする