十三街道の石仏

十三街道の石仏



恋の通い路

 摂津玉造から十三峠を越えて大和龍田までを結ぶ道を十三街道という。古く龍田越えと称した幾筋かの道のひとつだ。
 旧河内国高安郡神立こうだち村(現八尾市神立)辺りから東は「なりひら道」と称ばれることもある。美男の代表格にして六歌仙に数えられる在原業平ありわらのなりひらが女に逢うために八百度も往還したという故事による。『伊勢物語』の「筒井筒つついづつ」の段に描かれている、有名な「高安の女」だ。
 神立村は十三峠越えの登り口にあたり、往時にはいくつもの茶屋が軒を並べて、街道を通る人びとを相手に商いをしていた。業平が見初めたのは神立の茶屋の娘だったと地元では伝承されている。平安時代に茶屋というのはそぐわない気もするが、そこはご愛嬌。

 神立の集落を十三峠へ向けて登って行くと、四つ辻の角に「右 大坂道」「左 信貴山 米尾山 たつの 法隆寺 大和ミち」と刻まれた道標が現れる。米尾山は信貴山奥之院のこと、立野は龍田大社の鎮座地。
 さらに進むと三つ辻があり、地蔵堂が建っている。辻地蔵とか南小路地蔵とか称ばれている。この辺りから峠に向かって茶店が建ち並んでいたといい、茶屋辻と称した。

神立辻地蔵堂

神立辻地蔵堂



神立辻地蔵堂
【こうだちつじじぞうどう】
所在地大阪府八尾市神立五丁目
御本尊地蔵菩薩
創建不詳
別称/旧称南小路地蔵堂


 在原業平の住まいは当時大和国添上郡櫟本いちのもと(現天理市櫟本町)にあったとされる。そこから十三峠を越えて神立の玉祖たまのおや神社(河内郡の枚岡神社とも)に参詣する折、茶屋辻にある茶店のひとつ福屋に立ち寄った業平は、梅野という名の娘に一目惚れする。
 福屋はたいそう繁盛していたらしく立派な屋敷があり、娘の梅野は都の高貴な姫のように優雅な暮らしをしていて教養もあった。業平は夢中になり、足しげく通っては逢瀬を重ねた。
 ある夜のこと。業平はいつも笛の音で梅野に来訪を知らせていたのだが、今夜に限って笛を吹いても音沙汰がない。そっと忍んで庭から屋敷を窺ったところ、東側の窓が開いていて、梅野の姿が見えた。声をかけようとした業平だったが、次の瞬間言葉を失う。なんと梅野は飯を手ずから器に盛って食べていた。それは高貴な姫のすることではない、はしたない行為だった。地が出たということか、所詮業平とは身分が違ったのだった。
 百年の恋が一瞬で醒めた業平は、梅野に声をかけるのをやめて大和へ引き返すことにする。その姿を見とめた梅野は後を追うが、業平は構わず逃げる。

君があたり見つつををらむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも

 あなたのいる大和の方を見ながら過ごしましょう。雨が降ろうとも、雲よ、生駒山を隠さないでおくれ――。  
 業平の背中に向かって梅野はそう詠んで引き留めようとする。憐れに思ったのか、業平は一言、「また来る」とだけ告げて去った。
 それから梅野は業平を待ち続けたが、二度と姿を現すことはなかった。

君来むと言ひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経る

 あなたが来ると言ったその夜ごとに待っていますが時は虚しく過ぎてしまいました。もうあてにはしていませんが、それでもあなたを恋しく想いながら過ごしています――。
 その歌を詠んだのち、梅野は淵に身を投げて命を絶った。
 以来、この地では娘の縁が遠ざかるとして、東向きの窓を開けることを忌むようになったという。

 辻地蔵堂の前には左右にそれぞれ二体ずつの石仏が並んでいて、向かって右の一対の台座には「壹(一)番」、左には「二番」と刻まれている。左右とも二体のうちの一体は顔つきから見て弘法大師のようだ。ここから先、十三峠手前の水呑地蔵尊へ到る道の脇に三十三番まで、都合六十六体の石仏が置かれているという。
 その石仏の道を水呑地蔵まで辿るのがこの日の目的だ。

神立辻地蔵堂前の石仏 一番

神立辻地蔵堂前の石仏 一番



石仏の道

 地蔵堂を過ぎると間もなく民家は途絶え、山道となる。
 晩春の空は晴れ渡り、その日差しに新緑が目映く輝いている。
 道の傍らを流れる清流の音が耳に心地よい。時折鳥のさえずりが響く。葉ずれの音とともに吹くやわらかな風が、うっすら汗ばんだ額に涼しい。
 三十三番まであるという石仏は途中まで数えていたが、そのうちわからなくなってやめた。石仏は様ざまで、地蔵もあれば観音や阿弥陀、大日如来らしきものもある。二体一対のもの以外に一体のみのものもある。片方が失われたり場所を移動したりしたのだろうか。いや、そもそも明らかに六十六体よりずっと多い。いろいろな時代にいろいろな人がそれぞれに安置していったものだろう。かつてこの十三街道を幾多の旅人が往き交った光景を想像し、感慨深げにひとり頷く。

 点在する様ざまな造形の石仏を通り過ぎながら、ふと思い到る。
 これらは十三仏ではなかろうか。
 十三峠の名は十三塚に由来する。十三塚は峠の北の嶺上にあり、大小十三の土墳が連なったもので、神武天皇の皇后媛蹈鞴五十鈴媛ひめたたらいすずひめとその殉死者を埋葬した塚だとかいう伝承があるが、十三仏信仰との関連が有力視される。十三仏は人の死後、初七日から三十三回忌までの十三回の追善供養を司る仏尊。
 とすれば石仏が三十三番まであるというのも合点がいく。やはり十三仏に違いない。
 世紀の大発見をしたかのような誇らしい気持ちに釣られて少しスキップ気味の足取りになるが、道を下ってくるハイカーに気づいて我に返る。「こんにちは」と挨拶を交わしながら、変に思われてはいまいかとちらりと顔を覗きこんですぐに視線を逸らした。

十三街道の石仏

十三街道の石仏



 緩やかだった道は六丁目の丁石辺りから勾配が急になり、九十九折りとなる。この辺りの小字名は七曲というらしい。
 自然石に彫ったらしい小さな道標が目に入った。「右 たつの 左 いちはら村」と読める。道標がなければ気づかなかっただろうが、ここで道が分岐しているらしい。しかし左の道は草に覆われていて先へ進めそうにない。後でわかったことだが、この道は櫟原いちはら越え(河内越え)と称し、十三峠を越えた先の福貴畑ふきはたの北に位置する櫟原へと続く道だが、今は廃道同然とのことだ。

十三街道の道標 「右 たつの 左 いちはら村」

十三街道の道標 「右 たつの 左 いちはら村」



 さらに登っていく。途中三十三番の石仏を過ぎたので間もなく目指す水呑地蔵尊かと思いきや、そこからも石仏は点点と続き、目的地にはまだ辿り着かない。
 やがて背後の視界が開け始め、遠くの街並みが見渡せるようになった。随分と高く登って来た。どうやらもう少しで着きそうだ。
 ほら、鐘楼が見えてきた。

水呑地蔵尊 鐘楼

水呑地蔵尊 鐘楼



霊験の清水

 水呑山地蔵院は十三峠の西中腹、峠越えの道の途中にある。
 本尊の地蔵石像は弘法大師空海の作と伝わる。

水呑地蔵尊 石標

水呑地蔵尊 石標



水呑山地蔵院
【みずのみさんじぞういん】
鎮座地大阪府八尾市神立988-6
宗派融通念佛宗
御本尊地蔵菩薩
創建承和三年(AD836)
開山壱演慈済
別称/旧称水呑地蔵尊 水呑堂 融通念佛宗北高安教会


 弘仁十四年(823)八月二十四日、弘法大師が十三街道を通って大和へ向かっていた時のこと。長い山道には水を手に入れる場所がなく、旅人たちは喉の渇きに苦しんでいた。それを見かねた大師は、手にした錫杖で道端の岩を力一杯突き、何やら真言を唱えた。すると岩の割れ目から清水が湧き出した。さらに大師は地蔵菩薩の尊像を彫り、この地に安置して去った。
 その水は大雨が降ろうと決して濁ることなく、旱魃に見舞われても決して涸れることなく、往き交う人びとの喉を潤した。しかも飲めば諸病に効験ありとたちまち評判となった。

 それから十三年後の承和三年(836)九月、空海の孫弟子にあたる壱演権僧正が地蔵菩薩像のために堂宇を建立したという。
 ちなみに壱演は鞍馬山の僧正坊という天狗になったと伝えられる人で、法力の強さで名高かったものと思われる。縁起に空海と壱演の二人が登場することに関してややしっくりこない感があるが、霊水の伝承が元は壱演のもので、後世弘法大師にすり替わったということもあるかもしれない。

水呑地蔵尊 本堂

水呑地蔵尊 本堂



 本堂の傍らの小堂には二つの壺があり、大師の祈願によって得られた「弘法水」が今もこんこんと湧き出ている。

水呑地蔵尊 弘法水

水呑地蔵尊 弘法水



 本堂の前は展望台になっており、大阪平野を一望できる。夜景スポットとしても人気がある。

 さらに登ると大師堂があり、弘法大師を祀る。「弘法大師御休息巌」と刻んだ駒札が柱に打ってあったが、どの石を指すのかわからなかった。

水呑地蔵尊 大師堂

水呑地蔵尊 大師堂



 ここからあと少し登れば十三峠だ。
 大和を目指して峠へ向かう人も、峠を下って来て河内へ急ぐ人も、この水呑地蔵で渇きを癒し、絶景を眺めながら一息ついて、再び旅立って行ったのだろう。今は旧道の北に車道ができて、ものの数分で峠を越すことができる。でもたまにはこうして山道を自分の脚で歩き、昔の人のことに思いを馳せるのも悪くない。


参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇秋里籬嶋『河内名所図会』 柳原書店 1975
◇堀内秀晃/秋山虔(校注)『竹取物語 伊勢物語』 岩波書店 1997


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伊勢物語
伊勢物語
付現代語訳

石田 穣二

角川学芸出版
1979-11

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むかし男ありけり――。王朝の代表的な知識人在原業平の風流恋愛譚が、歌を挿みながら語られる素朴な短編形式の歌物語。後人が補筆して十世紀初め頃に成ったもので、抒情文学から叙事文学への過渡的形態を示す作品である。
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