神の於わす山
南北に長い岸和田市のほぼ中央に位置する神於山は標高およそ三百メートルの独立峰で、古来、その名の示す通り神の山として崇拝されてきた神体山、神奈備だった。神於山を囲むように多くの神社が分布している。また中世には南麓に神於寺が栄え、最盛期には百八坊が建ち並ぶ大伽藍を誇ったという。神於山は常に信仰の中心として屹立してきた。
そんな山麓にある神社のうちのひとつが、西北麓に鎮座する意賀美神社。闇龗神を祀る。
意賀美神社 【おがみじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府岸和田市土生滝町社平山17 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 闇淤加美神【くらおかみのかみ】 |
創建 | 不詳 |
延喜式神名帳 | 和泉國和泉郡 意賀美神社 |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 雨降明神 龗太神宮 |
神の森
意賀美神社は大樹が生い茂る鬱蒼とした森の中にある。人の手の殆ど及んでいない、自然のままの社叢は大阪府自然環境保全地域に指定されている。龗神は水を司り、祈雨・止雨、また灌漑・利水の神として信仰され、一般に龍神とされる。闇龗神と高龗神があり、「闇」は谷、「高」は峯上を意味する。
社殿は神於山を背に西面し、津田川が流れる渓谷を見下ろすように建つ。谷の水を司る神を祀るに相応しい。
延喜式内和泉郡二十八座のうち。土生滝村・阿間河滝村(合わせて両滝村とも称ばれる)の産土神で、雨降明神と称した。
満願寺という宮寺があったが明治維新後に廃絶している。明治五年(1872)村社に列し、明治四十年(1907)に土生滝村字一瀬の一瀬神社(市杵島姫命)、同村字古元の古元神社(高龗神・天児屋根命)を合祀。
境内社に厳島神社(市杵島姫命)と京都愛宕神社から勧請の荒神社(火産霊命)。他に石祠がいくつかあるが祭神不明。
『大阪府全志』では末社として厳島神社・天照皇大神宮(神明神社)・春日神社・熊野神社・住吉神社・吉野神社(廣國神社)・八幡神社を挙げる。『式内社調査報告』ではこれに大山咋神社を加えて八座とする。
龍神の滝
意賀美神社の社域内には和泉葛城山を源とする津田川が注ぎ込み、落差およそ十メートルの滝となって落ちている。この滝は「雨降の滝」と称し、古くから祭祀対象となっていたと思われる。「雨降大明神」と称ばれた意賀美神社の信仰の主軸だった。
日照りの際に滝壺の水を汲んで神前に祈れば、たちまち雨が降るとされる。雨の前には神於山から滝に向かって白雲がたなびくという。
天平四年(732)畿内が大旱魃となった。悩ましい日日を送っていた聖武天皇だったが、ある夜、都の南西十五里にある滝の傍に祀られる神に祈るべしとの夢告を得る。帝は使いを出してその神社を探させたところ、和泉国神於山の麓に滝があり、その傍らに神が祀られていることがわかった。それこそが意賀美神社であった。早速幣帛を捧げて祈願すると、果たして大雨が降ったという。
この時、聖武天皇は愛賞していた奇石を奉納したと伝える。拝殿前にある巨石がそれだろうか?
北側の参道に「天平四壬申年八月吉日 龗太神宮」と刻まれた手水石が現存する。
また元慶八年(884)の旱魃の際にも、陽成天皇によって菅原道真が奉幣使として派遣され、祈雨を行ったという。
江戸時代には岸和田藩主岡部氏の崇敬篤く、藩主自ら奉幣して雨を祈り、また多くの土地を寄進している。江戸後期の寺社改帳に社地二万六千坪という記録がある。
寛永年間(1624~1645)の旱魃で近郷百八ヶ村より人びとが集まって祈雨し、望み通り大雨が降って以来、毎年六月土用入の日に神酒を献じて祭典を行うようになったという。
神於寺の縁起に、役行者の祈りによって同寺鎮守神の宝勝権現が津田川河口の鱧崎に顕現し、その後神於山に飛来したと伝える。
この説話は、元は意賀美神社の縁起ではなかったかとも思える。即ち、鱧崎から津田川を遡り、雨降の滝に神が宿ったという伝承が先にあったのではなかろうか。
なお、和泉葛城山頂の高龗神社には、弘法大師の祈祷で脇浜浦に現れた龍神が近木川を遡って和泉葛城山に鎮まったという、ほぼ同じ形の説話が伝わっており、関連が窺える。
『大阪府全志』によると、旧南郡津田村字鱧崎の鱧崎神社(祭神不詳)が明治四十一年(1908)阿理莫神社に合祀されている。これが神於寺縁起にある宝勝権現の降臨地だろう。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第五巻 京・畿内 5』 皇學館大学出版部 1977
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇白井永二/土岐昌訓(編)『神社辞典』 東京堂出版 1997
◇川口謙二(編著)『日本の神様読み解き事典』 柏書房 1999
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