恩智神社
【おんぢじんじゃ】


鎮座地: 大阪府八尾市恩智中町五丁目青谷原10

包括: 神社本庁

御祭神:
大御食津彦命【おおみけつひこ】(天児屋根命五世孫)
大御食津姫命【おおみけつひめ】(伊勢外宮豊受姫命異名同神)

創建: 雄略天皇御宇(AD456~479)

延喜式神名帳: 河内国高安郡 恩智神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗

社格等: 河内国二宮 旧府社

別称/旧称: 元春日 下水分社


◆恩智神社 一の鳥居
恩智神社 一の鳥居

 平安時代に編纂された『延喜式』の中に『神名帳』という、当時朝廷の管轄下にあった神社の一覧がありまして、そこに記されている神社、またはその後裔とされている神社を式内社と称びます。
 恩智神社はそのうちの一社で、「恩智神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗」と神名帳に記されています。
 全ての式内社は年に一度の祈年祭に朝廷から幣帛(捧げ物)を受けていました。神社によっては月次祭・相嘗祭・新嘗祭の際にも幣帛を受けており、そのように記されています。
 また、式内社には大社と小社があって、大社の中でも特に霊験あらたかとされる神を祀っている神社は「名神大社」と呼ばれ、名神祭という臨時の神事が行われました。旱魃や疫病の流行といった国家的な危機に際して、名神祭を執り行って力のある神に祈ったわけです。
 恩智神社はそんな名神大社の一つであり、当時における最高ランクの神社の一つであったと言えます。

◆恩智神社 中門と本殿
恩智神社 中門と本殿

 社伝によれば、元の祭神は天児屋根命だったともいいますが、現在頒布されている由緒書はその辺りがボカして書かれていて判然としません。
 天児屋根命を河内国一宮枚岡神社を経て奈良の春日大社に(あるいは春日大社に直接)遷したことから、「元春日」と称ばれるといいますが、これは恩智神社にのみ伝わる話で、一般に元春日と呼ばれているのは枚岡神社です。
 ともあれ現在、天児屋根命は摂社春日神社として本殿とは別に祀られています。

 他に、建水分神社(千早赤阪村)の上水分社、美具久留御魂神社(富田林市)の中水分社に対して「下水分社」とも呼ばれる、と由緒書にありますが、これも建水分社が上で美具久留社が下とするのが一般的です。

 また由緒書には、手力雄神を祀ると記す『総国風土記』の一文も紹介されています。
 これは『日本総国風土記』を指すと思われます。仙台藩の儒学者佐久間洞巌の『日本総国風土記残篇』河内国高安郡の条に確かにその一文があります。
 ただし『日本総国風土記』は古代の風土記ではなく、大部分が近世に書かれたいわゆる偽書だとされています。

 神社から七百メートルほど麓に下ったところに頓宮(御旅所)があり、「天王の森」と呼ばれています。森といっても現在は広場のようになっていて、末社八坂神社の小祠があります。

◆天王の森の八坂神社
天王の森の八坂神社

 この天王の森は恩智神社のかつての鎮座地だと伝わります。
 南北朝時代、この地の豪族で恩智神社の社家でもあった恩智左近が恩智城を築くにあたり、神社より高い場所に築城するのは不敬だからと、城より高いところに社を遷しました。それが今の鎮座地だそうです。

 さて、恩智神社の境内にもどります。
 恩智神社の本殿は左右二つあります。向かって右が大御食津彦神で、左が姫神です。
 その左右の本殿の間に小さな社殿があります。本殿に比べれば小さいとはいえ、主祭神でもないのに何故か中央に鎮座している謎の末社。それが天川神社です。
 数百メートル登った天川(尼川)山というところに奥宮として祀られていたのを、明治元年(1868)に遷したと伝わります。
 祀られているのは春日辺大明神、御神徳は雨乞いとのことですが、その正体はよくわかりません。奥宮に祀られていたことから、地主神のような位置付けなのかもしれません。大御食津彦が祀られる以前の本来の祭神であったのかも。

◆天川神社 木と灯籠に隠れていて見にくいですが
天川神社

 同じ高安郡の式内社に天照大神高座神社があります。恩智神社の北数百メートルに位置します。延喜式神名帳に「天照大神高座神社二座 並大 月次 新嘗 元号春日戸神」とある神社です。元は「春日戸神社」と称していたのを、何らかの理由で改名しています。祭神が変わったと考えるのが自然でしょう。春日戸なる神は渡来系氏族の春日戸氏が奉じたとも言われていますが、実体はわかっていません。
 春日辺大明神という神名から、天川神社を式内天照大神高座神社に比定する説もあるようです(度会延経『神名帳考証』)。
 式内社であるかどうかは別にして、恩智神社と高座神社が元来同じ神を祀っていた可能性は高いと個人的には思っています。両社の祭神が変わった裏にはどんな歴史が隠されているのでしょうか。そんなことを想像する楽しさも古社巡りの醍醐味です。

恩智神社末社 天川神社
【おんぢじんじゃまっしゃ あまかわじんじゃ】


鎮座地: 大阪府八尾市恩智中町

御祭神:
春日辺大明神【かすがべ】

創建: 不詳

延喜式神名帳: 河内国高安郡 天照大神高座神社二座 並大 月次新嘗 元号春日戸神


 谷川健一氏は『青銅の神の足跡』の鍛冶神・天目一箇神に関する論考において、『日本民俗学辞典』の興味深い記述を紹介しています。『日本民俗学辞典』から引用します。
「河内中河内郡高安村の恩知神社の祭神は、五月五日の端午の粽にて目を突き給ひし事あるより、一般端午に粽を作らぬ(同郡誌)」
 谷川氏はこの伝承に片目の鍛冶神の影をみとめ、恩智神社の近くで二つの銅鐸が出土していることに触れて、恩智神社が鍛冶氏族と関わりがある可能性を示唆しています。
 さらに谷川氏は同書で「青」の地名と金属精錬氏族との関連について論証していますが、実は恩智神社の現鎮座地の小字名は「青谷原」なのです。
 現在の恩智神社から金属精錬との関連を直接的に示すものは見い出せません。しかし、この事実は天川神の正体を掴む取っ掛かりになるかもしれないと私は思っています。

◆恩智神社 御朱印
恩智神社 御朱印


参考文献:
◇太田亮『河内』(日本国誌資料叢書) 磯部甲陽堂 1925
◇中山太郎『日本民俗学辞典』 昭和書房 1933
◇佐久間義和『日本総国風土記残篇』(『仙台叢書 第十八』所収) 仙台叢書刊行会 1936
◇谷川健一『青銅の神の足跡』 小学館ライブラリー 1995


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青銅の神の足跡(小学館ライブラリー)
古代の日本列島に登場する独眼の金属神とは? 埋もれた銅鐸は何を物語るのか? 地名や土地に眠る神々の伝承への深い考察を通して、闇につつまれた「記紀」成立以前の古代社会像、古代人像を掘り起こす壮大な労作。
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