新田開発と河内木綿
現在八尾市山本町と称ばれている地域は、かつて大和川の川床だった。大和川と幾筋もの支流はたびたび氾濫し、流域に甚大な被害を及ぼしていた。幕府への根気強い嘆願が実り、宝永元年(1704)ついに川違え(付け替え)工事がおこなわれた。
付け替えはおよそ八ヶ月で完了し、新たに生まれた現山本町の土地は新田として整備された。開発を請け負った泉州箱作村の山中善兵衛・庄兵衛父子と大坂平野の商家加賀屋の本山弥右衛門から一字ずつを採って「山本新田」と名づけられた。
山本新田の鎮守である山本八幡宮は享保元年(1716)に石清水八幡宮より神霊を勧請し創建された。
山本八幡宮 【やまもとはちまんぐう】 | |
---|---|
鎮座地 | 大阪府八尾市山本町一丁目中野2-16 |
包括 | 神社本庁 |
御祭神 | 品陀和気命【ほんだわけのみこと】(応神天皇) |
創建 | 享保元年(AD1716) |
社格等 | 旧村社 |
鳥居の向かって右に五基の石灯籠が並んでいるが、このうちの一対が山中庄兵衛と本山弥右衛門の寄進したもので、両名の銘がある。
加賀屋は享保九年(1724)の大火によって新田を担保に借りていた金が返済できなくなり、新田は大坂長堀の泉屋(住友)吉左衛門の手に渡った。それから昭和十五年(1940)に至るまで山本新田は住友財閥が所有していた。
元は川床であった砂地は保水力が弱く米作には適さなかったが、水はけの良さが綿の栽培に向いていた。新田開発によって八尾を中心とした河内の中南部では綿作が盛んになり、それを紡いで作られた木綿製品は「河内木綿」として全国的に知られるようになる。
神社を出て東へ数十メートル歩くと、山本コミュニティセンター (八尾市役所山本出張所)の前に「山本新田住友会所跡」と刻まれた石碑がある。享保八年(1723)新田の管理運営をおこなう会所がここに置かれた。
玉串川と桜並木
社前を南北に流れる玉串川は、かつては大和川の本流のひとつで「玉櫛川」と称ばれていた。大和川付け替えによって玉櫛川は消失するが、旧川床に農業用水路を整備して改めて水を流したのが現在の玉串川だ。
地元では桜の名所として知られる。
かつての玉串川は汚泥が堆積し、木綿の染織工場からの廃水で赤く染まった水が流れていたという。
昭和四十年(1965)に周辺住民の寄付を集めて百二十本のソメイヨシノが植えられたのを始まりに、現在では川の水も綺麗になり、約五キロメートルに渡って川沿いにおよそ千本の桜が咲き誇る並木道となっている。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
大きな地図で表示

日本人の心を魅了してやまない桜。京都の桜風景を集めた珠玉のオールカラー英文写真集。40年以上にわたって桜を撮り続けてきた写真家、水野克比古・秀比古が自ら精選した150枚におよぶ桜風景の集大成版! 海外へのギフト、外国からのお客様へのお土産にも最適。
by G-Tools
Commenti / コメント
コメントする