法禅寺より受け継ぐ法灯


 大阪府柏原市法善寺には、地名の由来となった法禅寺という寺院がかつてあった。
 法禅寺は神護景雲年間(767~770)の創建と伝わり、七堂伽藍を備えた大寺だったが、天授年間(1375~1381)の兵火で堂塔をことごとく失い廃寺となったという。なお、『大阪府全志』は廃寺の時期を南北朝期の天授ではなく、織田信長・豊臣秀吉時代の天正年間(1573~1593)とする。
 法善寺字家の尻には、その法禅寺の一院であったとも伝わる観音堂があった。壺形の井戸の上に祀られていたことから「壺井観音堂」と称ばれたその堂が建つ地に、融通念佛宗の僧道念が寺院を開いた。融通念佛宗総本山大念佛寺に伝わる延宝五年(1677)の『大念佛寺四十五代記録并末寺帳』によると、元和三年(1617)のことという。当初は浄福寺と称したが、観音堂の名からいつしか「壺井寺」と称ばれるようになった。

壺井寺 山門

壺井寺 山門



河内西国巡礼 第七番
護法山壺井寺
【ごほうざんつぼいでら】
所在地大阪府柏原市法善寺一丁目家の尻10-20
宗派融通念佛宗
御本尊阿弥陀如来
札所御本尊聖観世音菩薩(避雷観音)
創建元和三年(AD1617)
開山道念上人
別称/旧称浄福寺
御詠歌のりのみちいづるしみずのつぼいでらくみてながさんつみのみなれば
法語:和顔愛語


壺井寺

壺井寺



 古代には津積つつみ郷と称した法善寺の辺りは平城宮と難波宮を結ぶ渋川道の起点にあたり、駅家うまや(往来する役人のために馬を配置し、宿所にもなった施設)が置かれた。法禅寺はそうした交通の要所にある重要な寺院だったと考えられる。
 天平勝宝八年(756)、難波宮への行幸途中に孝謙天皇が参拝した河内六寺の一つ、三宅寺を法禅寺に比定する説もある。

 本尊阿弥陀如来を安置する寄棟造の本堂は明治二十年(1887)に丹北郡向井村(現松原市北新町)の布忍山永興寺から移築されたもの。永興寺は同六年(1873)に廃寺となっている。因みに永興寺の本尊十一面観音像や寺宝は河内西国第五番大林寺に移管されている。

壺井寺 本堂

壺井寺 本堂






雷封じの観音


 河内西国第七番札所本尊であり、融通念佛宗寺院となる前からこの地に祀られていたと伝わる観音像は、現在本堂の厨子の中に安置され秘仏となっているが、以前は山門をくぐって右奥の観音堂に祀られていた。
 銅製の立像で、像高は台座を含めて約二十六センチメートル。白鳳期の作と考えられる。元は金銅仏だったとみられるが、火災に遭ったためか鍍金が剥がれ、所どころに損傷が認められる。観音菩薩ではなく、勢至菩薩として作られたものとみられている。

壺井寺 観音堂

壺井寺 観音堂



 この像は「避雷観音」という通称を持つ。
 法禅寺が焼失したのち、この地で頻繁に落雷が発生するようになり、困った人びとは壺井の観音に祈った。
 願いを聞き入れた観音は、雷におとなしくするよう語りかけた。しかし雷はその言葉を聞くどころか、ますます激しく暴れまわる。そしてあろうことか観音めがけて落ちていったが、勢い余って観音の下の井戸に飛び込んでしまった。観音はすかさず井戸を塞いで雷を閉じ込めた。
 雷は観音にこんこんと諭され、以後この地には落ちないことを約束してようやく井戸から出してもらったという。

壺井寺 観音堂

壺井寺 観音堂



伝統の継承


 壷井寺には、双盤(木枠に吊るした大型の鉦)を打ちながら独特の節にのせて「南無阿弥陀仏」を唱える双盤念仏が「鉦講」によって伝承されている。
 戦後は途絶えていたが、昭和三十九年(1964)に復活、春と秋の彼岸会などで行われている。
 四挺の双盤のうち二挺は宝暦十一年(1761)に製作されたことが記録に残っている。

壺井寺 本堂と十三重石塔

壺井寺 本堂と十三重石塔



壺井寺 本堂前の鴟尾

壺井寺 本堂前の鴟尾



壺井寺 御朱印 「大悲殿」

壺井寺 御朱印 「大悲殿」




参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇『やすらぎの古里 河内西国巡礼 こころの散策ガイド』 河内西国霊場会 2003


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