九頭神山秘譚
空海阿闍梨は河州錦部郡天野谷を南へ向かって歩いていた。唐で密教の全てを学んで二年余り前に帰国したものの、二十年と定められた留学を二年で切り上げて勝手に帰って来たため、大宰府での足留めを余儀なくされた。そしてこの大同四年(809)、許しを得てやっと畿内に戻ることができたのだった。一旦泉州槇尾山寺へ入り、沙汰を待って入京することになっていた。
道は天野川の流れに沿って南へのびている。川原に密生する茅の銀色の穂が午後の穏やかな風にそよそよと揺れる。
この先の天野山を越えれば和泉国だ。槇尾山までは十四、五里といったところか。日没までには到着するだろう。
風が少し強くなり、湿った生暖かい風に変わった。
にわかに日が翳った。
黒雲が湧き出て、先程まで晴れ渡っていた空をみるみる覆っていく。風が一層激しくなり、茅原がざわざわと大きくなびく。
夜のように闇と化した空を稲妻が走る。一瞬遅れて轟いた雷鳴と同時に、叩きつけるような雨が降り始めた。
空海は不気味な気配を感じ、背後を振り返った。
川原の茅ががさがさと動いている。風のせいではない。茅をなぎ倒して現れたのは巨大な蛇の頭だった。しかも一つではない。二つ、三つと次次に頭が這い出てきた。
九つの頭を持つ大蛇だった。その目は真っ赤に充血し、白い牙が覗く口からはこれまた真っ赤な舌がちろちろと出たり入ったりしている。一つ一つが人の胴回りほどもある九つの首。背は黒光りする鱗に覆われ、腹は爛れたように赤い。
大蛇は鎌首をもたげて襲いかかった。人ひとりを容易に一呑みにできるほどの大口を九つ同時にかっと開くと、青白い炎が噴き出た。
空海は衣の袖で大蛇の首を振り払いながら跳びすさってかわすと、真言を唱えた。
「ノウマクサンマンダボダナンボロン」
すると黒雲をかき分けて、白と黒の二匹の犬を伴った狩人が出現した。
空海の前に降り立った狩人は弓に矢をつがえると大蛇へ向けて狙いを定め、放った。
矢は風雨を裂きながら無数に分かれ、いくつもの矢が同時に大蛇の躰を貫いた。
蛇は大きな音を響かせながらしばらくのたうち回っていたが、やがて動かなくなった。いつしか雨は止み、黒雲も消え去っていた。
狩人は大蛇の屍骸に土をかけ始めた。土は見る間に積み上げられ、たちまち小山ができあがった。
空海は狩人に名を問うた。
「我は一字金輪仏頂。阿闍梨の力となるため丹生明神に化身せり」
そう告げて狩人は消えた。
空海は小山――大蛇の墓に向かって阿弥陀如来の陀羅尼を唱え供養を始めた。
のちに大蛇こと九頭神の墓には祠が建てられ、「九頭神山」と称ばれるようになった。その辺りの字名を「ナハイダ」と称するのは「南無阿弥陀」の訛ったものともいう。
そして空海を助けた丹生明神もまたこの地に祀られ、村の鎮守社として今なお崇敬されている。そこには九頭神もともに祀られている。
下里村の鎮守神
堺から女人高野といわれた天野山金剛寺へと通じる天野街道の終端近く、旧下里村(現河内長野市下里町)にその古社は鎮座している。青賀原神社 【あおがはらじんじゃ】 | |
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鎮座地 | 大阪府河内長野市下里町青ヶ原933 |
包括 | 単立 |
御祭神 | 丹生大明神【にうだいみょうじん】 高野大明神【こうやだいみょうじん】 久爾津神【くにつかみ】(国津神/九頭神) 稲荷大明神【いなりだいみょうじん】 |
創建 | 治承四年(AD1180) |
社格等 | 旧村社 |
別称/旧称 | 青ヶ原神社 四社大明神 |
元禄五年(1692)の『錦部郡之内本多隠岐守領分寺社帳写』には「四社大明神」とある。祭神は丹生大明神・高野大明神・国津大明神・稲荷大明神で、現在の祭神と同じ。末社として権現の小宮(現在は八幡社)、また宮寺の毘沙門寺(天野山海蔵院末寺)があったようだ。
大正十一年(1922)の『大阪府全志』では「青ヶ原神社」となっていて、明治四十年(1907)に小山田の住吉神社に合祀されたと記されている。祭神は国津神・高龗神・保食神。明治になって祭神を変更したらしい。
合祀後も社殿は残され、地元民によって祭祀が続けられてきた。祭神も江戸時代以前のものに戻されたようだ。
延暦三年(784)に紀州天野の丹生都比売神社より勧請との伝承があるが、実際には治承四年(1180)におよそニキロメートル南の天野山金剛寺の鎮守である丹生高野明神社から勧請されたものと思われる。この年、在地領主の三善貞弘は下里を含む天野谷一帯の土地を金剛寺に寄進している。
以来下里の地は中世を通じて金剛寺領であったが、豊臣秀吉の時代に下里村と天野山村が分割され、江戸時代の下里村は膳所藩本多氏の領するところとなった。
天野谷の古き神
冒頭に記したように、この地には弘法大師空海と丹生明神にまつわる伝承が残る。空海を襲った九頭の大蛇を、狩人の姿で顕現した丹生明神(その正体は一字金輪仏頂尊)の助力で調伏したというもので、それがこの神社の創祀譚となっている。
大蛇(九頭神)を葬ったと伝える九頭神山が青賀原神社の二百メートルほど南にあり、小祠が現存する。青賀原神社に丹生明神とともに祀られている久爾津神(国津神)はこの九頭神に他ならない。
おそらく九頭神は水神的性格を持ったこの地の地主神であろう。丹生明神が勧請される前から祀られていた古い神だ。
一方、二頭の犬を連れた狩人の姿で現れるといえば、高野山開創伝説において空海を高野山に導いた狩場明神(高野明神)である。通常は丹生明神の御子神とされる。
古い神が新しい神に主神の座を譲り、古い神は地主神として祀られるという典型的図式を反映した説話に、丹生明神と弘法大師の信仰が結びついて生まれた伝承だろう。
のどかな田園風景の広がる下里の地には、生きた信仰と伝承が明治の宗教再編の嵐を乗り切って今も受け継がれている。古い神神の息吹を確かに感じ取ることができるのだ。
参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇河内長野市史執筆委員会(編)『河内長野市史 第七巻 史料編四』 河内長野市役所 1980
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇河内長野市史編修委員会(編)『河内長野市史 第三巻 本文編 近現代』 河内長野市 2004
◇高木訷元『空海 生涯とその周辺』 吉川弘文館 2009
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日本に真言密教をもたらした空海が、渡唐前の青年時代に著した名著。放蕩息子を改心させようと、儒者・道士・仏教者がそれぞれ説得するが、息子を納得させたのは仏教者だった。空海はここで人生の目的という視点から儒教・道教・仏教の三つの教えを比較する。それぞれの特徴を明らかにしながら、自分の進むべき道をはっきりと打ち出していく青年空海の意気込みが全編に溢れ、空海にとって生きるとは何かが熱く説かれている。
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Commenti / コメント
コメント一覧 (3)
九頭神山秘譚のお話し、とても面白いですね!
もしよろしければ参考文献を教えていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
mako.f@tokitokido.com
はじめまして。お返事が大変遅くなって申し訳ありません。
九頭神山の話は、はっきり覚えていないのですが、河内長野市史と大阪府全志に載っていたと思います。角川の地名辞典にも載っていたかもしれません。簡単な記述だけでしたので、大蛇の姿の描写など細部は多少脚色しています。
(続き)境内の案内板にも書いてあったと思います。元は神社の由来記に書かれている内容ですが、原典まではあたれていません。
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