◆仲哀天皇陵伝承地

否定される仲哀陵説
現河内長野市上原西町の「大墓」は、元禄の修陵で仲哀天皇陵と認定された。しかし、仲哀天皇の長野西陵が河内国錦部郡上原村にあるとする説には重大な問題がある。『前王廟陵記』が引用しているように、『延喜式』は仲哀陵を志紀郡にあるとしているのだ。時代によって郡域が変化することはあるとはいえ、志紀郡と錦部郡では離れ過ぎていてそれはあり得ない。河内長野という現地名の由来であるこの辺り一帯の呼称「長野」が根拠になっているわけだが、志紀郡にも長野は存在する。
程なくして否定の意見が出てくるのは当然の成り行きだった。
元禄の修陵から三十余年後の享保二十年(1735)に著された『河内志』では、上原村の大墓を高向王【たかむこのおおきみ】の墓とする。
更に享和元年(1801)の秋里籬嶋『河内名所図会』でも仲哀陵説を否定し、高向王の墓だとする。
嘉永元年(1848)の『西国三十三所名所図会』は「仲哀天皇宮」「仲哀天皇陵」として挙げながらも、それは誤りであり正しくは高向王の墓であろうとしている。寛政年間(1789~1801)に立てられたという「此陵之地」とする制札が掲げられ、禁足地であること、清浄を保つべきこと、そして年貢を免除する旨が記されているとある。詳細に描かれた陵と神社の全体図が見開きで載っており、百七十年前の『河内鑑名所記』の絵図と比べて整備が進んだ様子が窺える。末社八幡宮にも石段が設けられ、「上原八幡宮」として別項扱いされている。
高向王は用明天皇の孫にして皇極天皇の前夫であるとされるが、その出自ははっきりしない。上原に隣接して高向【たこう】という地名があり、上原も古くは高向庄に属していた。この高向が高向王の名の由来ともいわれ、仲哀天皇陵説が否定されていくに伴って代替候補としてその名が浮上したと思われる。
文化五年(1808)刊行の蒲生君平『山陵志』は上原説には触れず、藤井寺市の仲津山古墳を仲哀陵として挙げている。仲津山古墳は応神天皇皇后中津姫の陵として現在宮内庁の管理下にある。
嘉永七年(1854)の津久井清影『聖蹟図志』は現仲哀陵の岡ミサンザイ説をとる。上原の伝承地も紹介しているが「或云高向王墓」として事実上否定している。
このように仲哀陵であることを否定する声が大勢を占める中、文久二年(1862)に「文久の修陵」が始まる。同年、宇都宮藩家老にして山陵奉行の戸田忠至一行が上原の陵を見分している。結果については追って沙汰すると村方に伝えられたというが、二年後の元治元年(1864)岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵と認め、修陵作業が始められた。その後上原村には何らの沙汰もないままだった。
こうして上原の仲哀陵は公式に否定された。
明治になり、新たな神社制度の下、仲哀天皇宮は村社西山神社となる。「西山」は鎮座地の小字名である。
西山神社は仲哀天皇を主祭神とし、神功皇后・武内宿禰・須佐之男命を相殿神とする。須佐之男命は村内の牛頭天王社に祀られていたものを明治五年(1872)に遷し合祀したもの。武内宿禰の代わりに高良明神と記したものも見受けられるが、両者はしばしば同一視される神である。
幕末に仲哀陵であることを否定された「大墓」は、複雑な思いはあったろうが、上原の人びとの間でも「高向王墓」として改めて受け入れることになったようだ。明治の初め頃の村方の文書には「高向王墓(塚)」の文字が見られる。残念ながら天皇陵ではなくなったが、皇族の墓ではある。高貴な人の葬地には違いない。そんな思いだったろうか。
無に帰する伝承地
仲哀天皇陵でなくなり高向王墓となった「大墓」のその後を追っていこう。明治八年(1875)の教部省の通達では、上原村の「高向王墓」については陵墓として完全に否定はしていないものの、墓掌・墓丁を置くことは不要とされている。
陵墓、すなわち天皇・皇后の被葬地である「陵」あるいはその他皇族の「墓」と認められるものについては、管理者として墓掌・墓丁が設置されたのだが、上原の伝承地は曖昧な状態に置かれていたことになる。
翌明治九年(1876)の地租改正に関する取調書では、西山神社の旧社域について「境内」と「境外山林」に分けているが、「高向王墓」は境外に含まれることとなった。
地租改正に伴う規定によると「伊勢神宮山陵官国幣社府県社及ビ民有ニアラザル社地」を「神地」とし、「官有地第一種」と定めて地券を発行せず税を免除した。つまり神社の敷地は全て国の土地とされたわけだ。
一方境外とされた土地は同じく官有地だが神社の土地ではなくなり、「人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時ハ其間借地料及ビ区入費ヲ賦ス」という「官有地第三種」に分類された。
注目すべきは、神地には「山陵」すなわち陵墓も含まれるとなっているから、官有地第三種とされた高向王墓は陵墓であることを認められなかったということだ。
このように、土地区分上では陵墓として扱われていないが、高向王墓説は完全に否定されておらず陵墓であるかの判断は定まっていない状況だった。
明治三十九年(1906)ある勅令が下されたことにより、この国の宗教界を嵐が吹き荒れる。
いわゆる神社合祀令である。合併することで神社の数を減らし、残った神社に資金を集めることで一定水準の施設・機能を維持させ、かつ財政負担を軽減し、国家による神社管理体制を強化するという思惑の下、大正三年(1914)までに全国の神社は三分の二以下に減ったといわれる。その結果、古来伝わる祭礼や習俗が多く失われ、宗教的断絶を生むこととなる。
合祀を進めるにあたっては各府県知事の裁量にある程度委ねられたため、地域によって実行度合には差があった。最も苛烈だった三重県ではおよそ九割の神社が廃社となった。大阪府もまた強硬な合祀が実行された地域のひとつであり、神社数は四割以下に減ることとなる。
西山神社もまた合祀の対象となった。明治四十一年(1908)二月、古野の浦野神社、原の菅原神社とともに西代の西代神社に合祀された。
官有地として上知(没収)されていたがのち明治三十四年(1901)に西山神社に払い下げられた境外地(山林と陵墓伝承地)を含む、およそ三千六百坪の西山神社跡地は合祀先の西代神社に無償譲与された。
西代神社はこの土地を売却せんとするため、大阪府知事に『古墳墓に係ル伺書』を上申した。それは、古墳もしくはその伝承のある場所を発掘する時は地方長官の許可を得なければならないという内務省令に従ったものだ。農地として開墾できないようでは売却することができない。
伺書の内容は府知事から宮内省に打診され、大正三年(1914)、「御陵墓ノ関係ヲ認メズ候」との回答が示された。陵墓ではないので、売却・開墾に関して「当省ヨリ指示スベキ限リ無之候」、どうしようと感知しないとの見解だ。現代的な文化財保護の見地で考えると、当時の古墳の扱いはある意味乱暴で、古墳であるかそうでないかはほとんど問題にされず、重要なのは陵墓、つまり皇族の葬地であるか否かだった。
上原の陵墓伝承地は仲哀天皇陵でも高向王墓でもなくなったことで、その伝承もろとも消え去るべく運命づけられることとなる。
神社の建物は全て処分された。墳丘は畑となって耕され、送電鉄塔が建った。
語り継ぐということ
住吉の神を祀る社と神功皇后の伝承、そして仲哀天皇の眠るとされた塚。それらがこの河内の南端の地でいつどのように生まれ、なぜ語られるようになったのか、今や知る術はない。それを知るには長く時が経ち過ぎ、多くのものが失われ過ぎた。明治の宗教政策がもたらした喪失と断絶を、その傷の深さを改めて思う。
神仏分離政策により住吉神社のたどってきた神仏習合の歴史は隠され、なかったことにされた。
神社合祀と陵墓行政により仲哀天皇陵といわれた場所は消え失せた。
それらを元に戻すことはできないけれど、せめて語り継いでいくことでその記憶を守り残していこう。それが今の世に生きる者の義務ではないだろうか。
◆住吉神社 参道

参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇正宗敦夫(編)『五畿内志 下』 日本古典全集刊行会 1929
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇秋里籬嶋『河内名所図会』 柳原書店 1975
◇三田浄久(著)/三田章(編)『河内鑑名所記』 上方藝文叢書刊行会 1980
◇河内長野市史執筆委員会(編)『河内長野市史 第七巻 史料編四』 河内長野市役所 1980
◇河内長野市史執筆委員会(編)『河内長野市史 第八巻 史料編五』 河内長野市役所 1981
◇暁鐘成『西国三十三所名所図会』 臨川書店 1991
◇河内長野市史編修委員会(編)『河内長野市史 第一巻(上) 本文編 考古』 河内長野市役所 1994
◇河内長野市史編修委員会(編)『河内長野市史 第三巻 本文編 近現代』 河内長野市 2004
◇沖森卓也/佐藤信/矢嶋泉(編)『古代氏文集』 山川出版社 2012
◇龜山勝『安曇族と住吉の神』 龍鳳書房 2012
◇尾谷雅比古『近代古墳保存行政の研究』 思文閣出版 2014
◇山田五平『神功皇后伝説と大阪・奥河内の物語』 一粒書房 2015
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Commenti / コメント
コメント一覧 (5)
大人になり住吉神社に何故鐘楼があるのか?不思議に思いはしましたが特に調べもせず今に至ります。
今回偶々住吉神社の話を見つけました。
少々私には難しい内容ではありましたが何となくではありますが理解できる話でした。
これからはお参りの時には隅々まで歩いてみたいと思います。
地元の事をもう少し知るべきですね。
沢山調べて頂きありがとうございました。
ちびまる子さん、コメントありがとうございます。
小山田住吉神社はとても好きな神社です。初めて訪れたとき、宮司さんに丁寧に対応していただいたのも良い思い出です。
河内長野は古社・古寺がたくさんあって良いところですね。
詳しく調べていただきありがとうございました!
西代神社の氏子ですが、もしかしたら西山神社の氏子だったかもしれないかと思うと「」
詳しく調べていただきありがとうございました!
西代神社の氏子ですが、もしかしたら西山神社の氏子だったかもしれないので
「勝手に入って遊んでいたあの場所が...」と感慨深いです(笑)。
被葬者は高向王なのか、また小山田住吉神社との関係など今後詳しいことが分かればよいなと思います。
コメントありがとうございます。
お返事が大変遅くなってしまい申し訳ありません。
高向王墓説のある高向神社の塚や上原の塚穴古墳の記事も上げたいと思いながらずいぶん年月が経ってしまいました。
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