◆住吉神社 本殿(背後)
住吉神社 本殿(背後)

神功皇后の伝説

 河内長野市によれば「奥河内」とは「河内長野市を中心とした大阪南東部の山麓エリア」を指すとのことで、近頃この名称の普及とブランド化に熱心に取り組んでいるようだ。
 その「ちかくて、ふかい」奥河内の、小山田の丘陵上に鎮座する住吉神社には神功皇后創祀の伝承がある。
 社頭に掲げられた案内板にはこうある。

住吉神社

祭神
表筒男命 中筒男命 底筒男命 住吉三神
息長足姫命 武内宿禰

由緒
当神社は小山田の東南尾上山の丘陵に鎮座し神功皇后三韓征伐の時深く三神に祈願ありて凱旋の後天下を巡行せられし時 和泉の国逆瀬川の上に騰跎船と云う処に御着き遊ばされそれより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処を着御の地と御定めになりその時その国境いに名主與三五郎と云う者御迎へに出で御先導申し上げ当神社の南方高天原に御着き遊ばされ給へり
それより攝政五十二年此の地に斎宮を建立せられ給う 三月壬朔皇后吉日を選びて斎宮に入り自ら神主となりて御祭祀され給う最も多くの歴史をもつ尊い宮なり
文化十酉歳十二月吉祥日に本殿を建替す 爾来住吉大明神と称へ来たりしも明治の初め 今の名称に改めらる
明治五年五月  郷社に列す
明治四十年一月二十八日大阪府告第十六号を以て同三十九年四月勅令第九十六号により神饌幣帛供進社に指定さる

御例祭 十月十二日
午后二時祭典 執後引続き馬駈神事斎行す

 逆瀬川は現在の堺市南区逆瀬川だが、その上の「騰跎船」がどこなのかはわからない。そもそもどう読むのかも定かでない。「とだふね」「とたふね」だろうか。住吉神社のある河内長野市小山田町に接して堺市南区豊田【とよだ】の飛び地があるが、関連があるかどうか。
 河泉国境から神功皇后一行を先導する與三五郎は古代の人物の名としてはそぐわない気もするが、それはともかく、国境付近には皇后の軍勢が鉾を揃えて居並んだ「鉾立」や軍旗を立てて休んだ「旗の坂」という地名が残るという。これらもはっきりとした場所はわからない。堺カントリークラブゴルフ場の北側辺りだろうか。「旗の坂」の音に通じる地名としては逆瀬川の南に堺市南区畑【はた】がある。ちなみに小山田町に隣接する堺市の南端は豊田・逆瀬川・畑の飛び地だらけで非常に入り組んでいる。
 そして小山田集落内には軍用品を詰めた壷を担いで運んだ「壷かつぎ坂」または「壷引き坂」という古蹟がある。郷土史家の山田五平氏によれば、明治に住吉神社の祭神(本地仏)を遷した「元宮」程近くの坂がそれにあたる。

◆壷かつぎ坂
image

 これらの伝承がいつ頃から、どのような経緯で語られるようになったのかはわからないが、住吉神社の由緒にある神宮皇后による創祀のくだりは『日本書紀』の「更造斎宮於小山田邑 三月壬申朔皇后選吉日入斎宮親為神主」を明らかに意識したものだ。
 すなわち、仲哀天皇九年(200)神の言葉に従わなかったために夫の仲哀天皇が筑紫橿日宮(香椎宮)で崩御したのち、神功皇后は「小山田邑」に斎宮を造営し、吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となったという記事だ。その後皇后は神の正体が住吉大神であると知り、神託に従い新羅へと兵を向けることとなる。
 新羅遠征の前と後という違いはあるが、この『日本書紀』の記述を元に由緒が創作されたのは間違いないだろう。勿論『書紀』を普通に読めば「小山田邑」の所在は九州であり、河内ではあり得ない。福岡県内にはこの「小山田斎宮」を称する神社が複数存在する。

 ここまで神功皇后にまつわる伝承地を紹介してきたが、もうひとつ、皇后と関わりの深い遺蹟があるのを忘れるわけにはいかない。
 それは、かつて夫である仲哀天皇の眠る御陵といわれた場所。

忘れ去られゆく天皇陵伝承地

 住吉神社の南東数百メートル、国道一七〇号線のバイパス(外環状線)と旧道(天野街道)の交差する辺りに「人皇十四代仲哀天皇御廟」と刻まれた石標が立っている。裏側に安政三年(1856)の銘がある。以前は今よりも西にあったものを、おそらくは道路整備のためだろう、この場所に移設したのだという。
 ここから五百メートルほど西にかつて存在したという、仲哀天皇陵と称ばれたもの。それが確かにそこにあったことを示す、この石標が現存する唯一の遺物だ。

◆石標 「仲哀天皇御廟」
石標 「仲哀天皇御廟」

 仲哀天皇陵は『日本書紀』には「河内国長野陵」、『古事記』には「在河内恵賀之長江」、『延喜式』には「恵我長野西陵」と記される。 
 現在、仲哀天皇陵は藤井寺市の岡ミサンザイ古墳がそれであるとされているが、現陵に治定される以前、錦部郡上原村(現河内長野市上原西町)にあるとみなされた時期があった。街道沿いに残る石標はそれに基づいて設置された案内碑だ。
 その場所は小山田丘陵の東側斜面、住吉神社の南鳥居からは南へ僅か二百メートルほどの距離にある。
 現在、御陵伝承地の東側は工業団地になっており工場が建ち並んでいる。そこから丘を望むと、送電鉄塔と果樹園を覆う青いネットが確認できる。そこが仲哀陵伝承地である。

◆仲哀陵伝承地 遠景
仲哀陵伝承地 遠景

 住吉神社の南にある赤峰市民広場から斜面を下るとある程度まで近づけるが、金網フェンスに阻まれて間近まで行くことはできない。
 フェンスの向こうには石川から寺ヶ池へ水を引く用水路があり、水路に沿って小道のようになっている。市民広場の南側からその道に入ることができた。水路の傍らを進んで行くと、先程金網越しに見た青いネットと鉄塔が現れた。ここがかつて仲哀天皇陵とされた場所だ。

◆仲哀陵伝承地
仲哀陵伝承地

 江戸時代の地誌に描かれているような丘状の地形はなんとか確認できるものの、鉄塔が建てられ、農地となった今、かつての面影は最早ないのだろう。
 水路から下りて農地内に入って行くこともできそうだったが、勝手に私有地に侵入するのはためらわれ、しばし逡巡したのちに諦めた。
 北側の竹藪には平坦部が認められた。古絵図に描かれている、陵の北にあった仲哀天皇宮(廟)の建っていた場所だろうか。
 
◆仲哀天皇宮跡?
仲哀天皇宮跡?

 水路から見下ろす限り、ここに仲哀天皇の陵やその霊を祀る廟社が存在した明確な痕跡を見つけることはできなかった。
 この場所が陵墓でなくなり、神社でもなくなって百年が過ぎ、天皇陵と称ばれていたことは今や忘れ去られようとしている。
 

仲哀天皇陵への治定

 この場所は古くから「大墓」とか「荒塚」とか称されていたようだが、古墳かどうかはわかっていない。本格的な発掘調査は行われていないからだ。
 いつの頃からここが仲哀陵といわれるようになったのだろうか。
 延宝七年(1679)の三田浄久『河内鑑名所記』は「上原仲哀天皇御廟」の項に「社 拝殿 石段 石の鳥居有」と記し、絵図を添えている。図には麓の鳥居から石段を上って「はいてん」(拝殿)、その後方に「本社」、左に末社の「八まん宮」、そしてその後方に鳥居とマウンド状の「御廟のはか山」が描かれている。少なくとも江戸時代前期には仲哀天皇の陵と認識されていたことがわかる。
 元禄九年(1696)成立の松下見林『前王廟陵記』では、「恵我長野西陵 穴門豊浦宮御宇仲哀天皇 在河内国志紀郡 兆域東西二町南北二町 陵戸一烟 守戸四烟」と『延喜式』の記述を引いた後、「或イハ曰ク西陵今上原村ニ在リ」としている。
 またそれとほぼ同時期、元禄十四年(1701)の『上原村明細帳』という文書があり、当時の境内の様子が記録されている。まず「一 氏神 仲哀天皇宮」として敷地面積等を記し、続けて「一 仲哀天皇宮内陣」として社殿内の配置について記す。祭神は五躰竜王・仲哀天皇・神功皇后であったことがわかる。そして「一 社」と続いて社殿の造り等が記載されている。
 更にこう続く。
「一 陵 高サ九間 惣廻リ百拾間 石塔 高サ弐尺 幅八寸
御遺骸筑紫橿日宮より長門穴門ニ送り豊浦宮より此所江棺槨を奉ト申伝候 元禄十一寅年従 御公儀様竹垣為仰付 大坂寺社役関根庄右衛門殿 三国市右衛門殿 其外下役之同心四人 大工弐人ニ而 御普請請被為遊候 竹垣 高サ五尺八寸 幅三間 横三間壱尺」
 これによると、仲哀天皇の遺骸を筑紫から長門の豊浦を経てこの地に送り葬ったという言い伝えがあったこと、そして元禄十一年(1698)に大坂町奉行所の寺社役与力が指揮を執り、陵に竹垣を設置したことがわかる。これは元禄十年(1697)に始まるいわゆる「元禄の修陵」に伴うものである。江戸幕府による最初の山陵探索事業であり、この時七十八陵を比定し、うち六十六陵については修繕や周垣設置が行われた。竹垣が設けられた上原の「大墓」は仲哀陵として認められたことになる。
 成立時期不明の『山陵図絵』でも「河州錦部郡上原村ノ内土手山ニアリ 所ノ氏神山ナリ」とし、林の中、石垣の上の一段高い壇上に「仲哀帝」と書かれた社殿、左下には「八幡宮」と多重石塔が描かれている。八幡宮上方のラフな線で四角く囲った部分が墳丘であろう。竹垣は見当たらないので元禄十一年以前に描かれたものだろうか。



大きな地図で表示

神功皇后の謎を解く《伝承地探訪録》
記紀はもちろん、各地の伝承から地名の由来にいたるまで、史料に真摯に向き合い、伝承の地を実際にくまなく歩きとおすことで見えてきた、神功皇后の真の姿。渾身の古代史フィールドワーク!
このエントリーをはてなブックマークに追加