海の神が鎮まる丘

 市街地を突っ切るように南へのびる国道一七〇号バイパス(大阪外環状線)は、河内長野の上原町交差点を過ぎると両脇の建物が一気に減り、のどかな風景に変わる。左手、つまり東には田畑が広がり、そして右の西側にはなだらかな丘陵が道路に沿うように緑の稜線を描いている。
 その丘――小山田丘陵は粘土質を多く含む赤土で構成され(赤峰という地名も存在する)、その保水力と高台ゆえの陽当たりの良さを生かし、桃や梨といった果樹の栽培が盛んな土地だ。「小山田の桃」といえば南大阪では名が知られている。
 東には石川の河岸段丘が広がり、南は天野山を経て和泉山脈へ連なり、西は河内・和泉の国境を挟んで泉北丘陵と接し、北は羽曳野丘陵へと続くその台地には、海を遠く隔てているにも関わらず、海の神を祀る古社が鎮座している。

◆住吉神社 正面鳥居
住吉神社 正面鳥居

住吉神社
【すみよしじんじゃ】


鎮座地: 大阪府河内長野市小山田町尾上山453

包括: 神社本庁

御祭神:
表筒男命【うわつつのお】
中筒男命【なかつつのお】
底筒男命【そこつつのお】
息長足姫命【おきながたらしひめ】(神宮皇后)
武内宿禰【たけのうちのすくね】

創建: 神功皇后摂政五十二年(AD252)

創祀: 神功皇后

社格等: 旧郷社

別称/旧称: 両部住吉五社大明神 小山田宮 清崎神社 豊浦神社


住吉大神と五社大明神

 小山田丘陵上、赤峰市民広場の北に小山田住吉神社はある。
 祭神は住吉三神と神宮皇后、および武内宿禰。明治四十年(1907)に合祀した青賀原神社(下里町字青ヶ原)と高瀬神社(天野町字高瀬)の祭神、久爾津神(九頭神)・高龗神・保食神も相殿となっていると思われるが、案内板には表記されていない。青賀原・高瀬の両社とも元の場所で祭祀が続けられているので、あるいは奉還したのかもしれない。
 境内社として瑞垣内に天神社と戎神社を祀るほか、南に設けられた馬場の脇に諏訪神社・高天原神社がある。
 明治五年(1872)郷社に列し、同四十年(1907)には神饌幣帛料供進指定社となっており、河内長野きっての社格を有する。

 江戸時代より前のことはよくわかっていないが、かなり古い時代に摂津住吉大社より勧請されたものであることは推察できる。
 天平三年(731)の奥書がある住吉大社秘蔵の『住吉大社神代記』は往古の住吉の社領がにわかに信じ難いほど広大な地域に及んでいたことを記しているが、その中に神饌田として「小山田」の名がみえる。「天野」「高向」といった周辺の地名も確認でき、これが錦部郡小山田村、現在の河内長野市小山田町を指す可能性は高い。住吉の神領であったのなら、そこに住吉の神を祀るのは自然なことだ。
 かつては住吉大社の神輿の渡御式に小山田から十六名の担ぎ手が毎年駆り出されていたというから、ある時期まで住吉大社と密接な関係にあったのは間違いない。

 龜山勝氏は著書『安曇族と住吉の神』において、この地から大阪湾をほぼ一望できるはずだとし、瀬戸内海側からも和歌山側からも大阪湾に侵入する船を監視できる場所であり、この小山田住吉神社が神戸市東灘区の本住吉神社とともに重要な防衛拠点であり得たという説を唱えておられる。古い時代における小山田住吉神社の存在と動向を示す史料がない以上「大胆な仮説」の域を出ないが、なかなかに興趣をそそる説ではある。

◆住吉神社 拝殿
住吉神社 拝殿

 ところで、明治・大正期の資史料では当社の社名が「清崎神社」となっている。また明治初年に清崎神社と改めるまでは「豊浦神社」と称していたともある。
 そこで江戸時代の史料をあたるが、豊浦神社という名は確認できない。代わりに、元禄五年(1692)の寺社明細帳に小山田村の氏神として「五社大明神」の名がある。祭神は薬師・阿弥陀・大日・観音・地蔵。境内に神宮寺があったとも記されている。どうやら神仏習合時代には両部神道に基づき、五柱の神はその本地仏の名で祀られていたらしい。境内に現存する鐘楼は当時の名残だろう。
 明治新政府による神仏分離政策を受けて祭神が改められ、清崎神社と名を変えたということのようだ。住吉神社となったのは戦後のことと思われる。

 しかし、清崎神社という名はどこから採られたのだろうか。調べてみると、住吉神社の南西およそ二キロメートルに清崎というバス停があることがわかった。この辺りは小山田町内の廣野と称ばれる地区。この「清崎」が由来なのだろうか。ただ社号に採用するには少少離れ過ぎている感はある。
 さらに調べると驚くべき情報を得た。清崎バス停の南西五百メートルにあるハサミ池の畔にかつて「清崎神社」があったというのだ。それを明治になって現住吉神社の所在地に遷座したという。
 つまり、敢えて悪意のこもった表現を使うなら、仏尊を祀っていた歴史を隠蔽するため、近郷の神社を遷し迎えて以前から神祇を奉斎していたように装ったということになろうか。
 なお、廣野の清崎神社の祭神はわからない。

◆ハサミ池 この畔に清崎神社があったという
ハサミ池


「元宮」に受け継がれたもの

 住吉神社の西北西およそ三百メートルの小山田の集落内に「元宮」と称する建造物がある。駒札には「元宮御祭佛 地蔵王菩薩 大日如来 阿弥陀如来 薬師如来 無量寿如来 観自在菩薩」とある。
 実はこの仏堂(とすべきか神祠とすべきか迷うところだが)は、神仏分離により神社境内から出された「両部住吉五社明神」を祀るため明治二年(1869)に村民により建てられたものだという。当初は現在地の北東二百メートルの「中山」と称ばれる高台に建てられたが、大正三年(1914)に現在の場所に遷され、今も大切に守られている。こちらこそが本当の村の鎮守だと言わんばかりに「元宮」と名づけた崇敬者達の思いが偲ばれる。
 駒札に六尊が記されているが、無量寿如来は阿弥陀如来の別名だから五社明神で相違ない。
 堂内を覗くと祭壇の扉が五つ確認できる。五尊の仏像が安置されているのだろうか。手前には小さな狛犬が一対。この狛犬は彩色が鮮明に残っており、像底に「延元五」「小山田宮」等と墨書がある。延元五年(1340)は南北朝時代。
 近年、この元宮に安置されていた押出仏(薄い銅版を槌で叩いて像形を浮き出させた仏像)が白鳳期に遡るものであることが判明し、昭和六十二年(1987)に前述の狛犬とともに大阪府の文化財に指定された。祭壇の前にこの押出如来三尊像の写真が置かれていた。
 押出仏と狛犬はともにかつて住吉五社明神社(現住吉神社)の境内にあったものと伝えられている。

◆元宮
元宮

元宮
【もとみや】


所在地: 大阪府河内長野市小山田町2056

御本尊:
大日如来(表筒男命本地)
阿弥陀如来(中筒男命本地)
薬師如来(底筒男命本地)
観自在菩薩(息長足姫命本地)
地蔵王菩薩(武内宿禰本地)

創建: 明治二年(1869)


神功皇后の斎き祀りし宮

 小山田住吉神社は神功皇后により祀られたと社伝にいう。
 神功皇后は第十四代仲哀天皇の后であり、夫の崩御後はその代行として七十年近くにわたり政務を執ったという伝説的な人物である。明治以前には十五代天皇とされることもあった。
 住吉神と神功皇后の間には密接な繋がりがある。本来住吉の神は表・中・底のツツノオ三神であるが、摂津住吉大社ではこれに神功皇后を加え、四神を住吉大神(住吉四所明神)として祀る。『住吉大社神代記』は皇后と住吉神に「密事」があったと記し、第十五代応神天皇の父が仲哀天皇ではなく実は住吉神であるとほのめかしている。これについては住吉大社神官であった津守氏の氏族伝承と住吉信仰、そして神功皇后信仰の関係性の中で考えるべきことでここでは措くとして、住吉大社からの勧請と目される小山田住吉神社の伝える由緒を見てみよう。概ね以下のようなものだ。
 
 神功皇后は住吉大神の神託により新羅に遠征、凱旋ののち天下を巡行する。和泉国逆瀬川(現堺市南区逆瀬川)の上の「騰跎船」という地に到着し、そこから河内国に向かうにあたって矢を放ち、その落ちた場所を目的地とすることにした。
 国境付近に着いたところで名主の與三五郎という者が皇后を出迎え、道案内をする。矢の落ちた場所は現住吉神社の南にある「高天原」と称する地だった。
 それからおよそ五十年後の神功五十二年(252)、皇后はこの地に斎宮を建立し、自ら祭祀を行った。それが小山田住吉神社の始まりである。

◆住吉神社 本殿
住吉神社 本殿

 現堺市の和泉国逆瀬川は神社の北西数キロメートルに位置する。その上の「騰跎船」なる場所がどこを指すのかはわからない。神功皇后はそこで矢を射るが、住吉神社で弓射式が行われるのはその故事による。矢の落ちた「高天原」は神社の南の小丘だともいう。それらしきものは今は見当たらないが、末社高天原神社の小祠がある。

◆住吉神社末社 高天原神社
住吉神社末社 高天原神社

 住吉神社では十月の例祭に「馬駈神事」といって、馬の手綱をとって馬場を駆け廻る神事が行われる。これもまた新羅からの凱旋を祝して裸馬の競争を催したという伝承に由来する。かつては農耕馬を各家から出していたというが、現在では馬を飼う家も無くなり、乗馬クラブから馬を借りて神事を行っているそうだ。

◆住吉神社 御朱印
住吉神社 御朱印

 神社の周辺には「鉾立」「旗の坂」「壷かつぎ坂」といった神功皇后の古蹟が点在する。
 住吉大神の信仰とともに、神功皇后にまつわる伝承がこの地に深く根付いてきたことが窺える。



大きな地図で表示

安曇族と住吉の神
安曇族と住吉の神

龜山 勝

龍鳳書房 2012-08

Amazonで詳しく見る

綿津見神と同時に誕生した筒之男神とは何か。その神は古代日本においてどんな役割を担ったのか。そして安曇族とはどんな関係にあったのか。日本各地の住吉神社に足を運び、丹念な調査の結果、日本国の防衛策を解明し、信州安曇野への都づくり(天武構想)に到達した。科学的論拠に基づいて考察する亀山古代ワールド会心の労作。
このエントリーをはてなブックマークに追加