右大臣藤原豊成とその娘中将姫が暮らした邸宅の跡と伝わる徳融寺。その境内に、本尊と並んで篤く信仰された観音像を安置する観音堂がある。
◆徳融寺 石標 「豊成公中将姫旧跡」

徳融寺観音堂は現在、北和八十八所霊場の第四番札所であるが、元禄八年(1695)の御詠歌集では四番が徳融寺本尊の天得如来となっており、観音堂は番外に名を連ねている。天得如来の御詠歌は「もろもろのくどくをつめばかのきしにいたるねがいもとおるおおてら」。
◆徳融寺 観音堂

観音堂本尊は日本最古ともいう子安観音菩薩立像。
檜一木造りで像高は約百九十センチメートル。乳児を両手で抱き上げた姿をしているが、実は腕と乳児は後補で、元は聖観音として造られたものらしい。平安時代初期の作ともいわれる。
『奈良坊目拙解』 に拠ると享保十五年(1730)、それまであった快楽庵という建物を移築し(どこに移したかは記されていない)、新たに子安観世音堂を建立したという。
◆徳融寺観音堂 御朱印 「子安観世音」

江戸時代末期、子安観音にあやかって徳融寺に寺子屋が開かれた。それを母体に、明治六年(1873)には魁化舎という名で小学校として新たに発足。二年後に中辻町の紀州屋敷(和歌山藩の御用所)に校舎を移し、その後も変遷を経ながら現在も存続している。今は西木辻町にある奈良市立済美小学校である。
参考文献:
◇清水俊明『大和のかくれ仏』 創元社 1976
◇村井古道/喜多野徳俊(訳註)『奈良坊目拙解』 綜芸舎 1977
◇奈良市史編集審議会(編)『奈良市史 社寺編』 吉川弘文館 1985
◇武石伊嗣/武石万里子『全国三十三カ所観音霊場および全国八十八カ所霊場ご詠歌集』 神谷書房 2009
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◆徳融寺 石標 「豊成公中将姫旧跡」

大和北部八十八ヶ所 第四番
豊成山高林院徳融寺 観音堂
【とよなりさんこうりんいんとくゆうじ かんのんどう】
所在地:奈良県奈良市鳴川町25
宗派:融通念佛宗
御本尊:
子安観世音菩薩
創建:不詳
御詠歌:ねがいをばかけてぞむすぶゆわたおびたわやすくしもとかせたまいぬ
豊成山高林院徳融寺 観音堂
【とよなりさんこうりんいんとくゆうじ かんのんどう】
所在地:奈良県奈良市鳴川町25
宗派:融通念佛宗
御本尊:
子安観世音菩薩
創建:不詳
御詠歌:ねがいをばかけてぞむすぶゆわたおびたわやすくしもとかせたまいぬ
徳融寺観音堂は現在、北和八十八所霊場の第四番札所であるが、元禄八年(1695)の御詠歌集では四番が徳融寺本尊の天得如来となっており、観音堂は番外に名を連ねている。天得如来の御詠歌は「もろもろのくどくをつめばかのきしにいたるねがいもとおるおおてら」。
◆徳融寺 観音堂

観音堂本尊は日本最古ともいう子安観音菩薩立像。
檜一木造りで像高は約百九十センチメートル。乳児を両手で抱き上げた姿をしているが、実は腕と乳児は後補で、元は聖観音として造られたものらしい。平安時代初期の作ともいわれる。
『奈良坊目拙解』 に拠ると享保十五年(1730)、それまであった快楽庵という建物を移築し(どこに移したかは記されていない)、新たに子安観世音堂を建立したという。
◆徳融寺観音堂 御朱印 「子安観世音」

江戸時代末期、子安観音にあやかって徳融寺に寺子屋が開かれた。それを母体に、明治六年(1873)には魁化舎という名で小学校として新たに発足。二年後に中辻町の紀州屋敷(和歌山藩の御用所)に校舎を移し、その後も変遷を経ながら現在も存続している。今は西木辻町にある奈良市立済美小学校である。
参考文献:
◇清水俊明『大和のかくれ仏』 創元社 1976
◇村井古道/喜多野徳俊(訳註)『奈良坊目拙解』 綜芸舎 1977
◇奈良市史編集審議会(編)『奈良市史 社寺編』 吉川弘文館 1985
◇武石伊嗣/武石万里子『全国三十三カ所観音霊場および全国八十八カ所霊場ご詠歌集』 神谷書房 2009
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