安寧天皇神社の参道を下り、坂を上って元の道へ。道の左手(西側)には吉田町の家家。その北の背後に緑の小山が見える。アネ山(アネイ山)とも花陰山とも西山ともいわれ、安寧天皇陵に治定されている場所だ。
程なく生垣で囲われた拝所が現れる。拝所はアネ山の東側に設けられ、西へ向かって陵を拝する形だ。
◆安寧天皇陵 拝所

◆安寧天皇陵 制札

アネ山は畝傍山からのびる尾根の最西端にあたる。道路によって分断されているため独立した丘陵のように見え、いかにも人工の古墳のように思ってしまうが、自然地形であり、古墳かどうかは定かでない。
谷森善臣は嘉永四年(1851)の『藺笠のしづく』で、アネ山の上に小祠が東面して建っていたことを記しているが、現在も残っているかはわからない。
一説にはこの祠がマナゴ山に遷され安寧天皇神社となったともいうが、この説には疑問点があり、精査を要する。
◆安寧天皇陵 拝所

安寧天皇陵の所在について、『古事記』は「畝火山之美富登」にあるとする。「美富登【みほと】」が固有の地名なのか一般名詞なのかはっきりしない。「ホト」は女陰を表わす言葉でもあるが、この場合は山間の窪んだ場所といったような意味だろうか。
一方『日本書紀』には「畝傍山南御陰井上陵」と記される。畝傍山の南の「御陰【みほと】」にある井戸、または「御陰井」という名の井戸の上ということか。
『延喜式』は「畝傍山西南御蔭井上陵」とする。『日本書紀』に準じているようだが、「南」ではなく「西南」とし、さらに「陰【ほと】」ではなく「蔭【かげ】」となっている。このことについて、女陰のイメージを忌避して意図的に変換したと推測したのは本居宣長である。
その、陵号の由来となったとされる御陰井は陵の南、吉田の集落内に現存する。石柵で囲われ蓋がされている。陵とともに宮内庁の管理下にある。
◆御陰井

安寧天皇は記紀には系譜が記載されているのみで事績の伝わらない「欠史」の天皇である。
ただ、国立国会図書館蔵『古今和歌集序註』では安寧天皇の出雲行幸が語られる。安寧天皇が出雲で素盞嗚尊に面会し、還御の際に素盞嗚が「天津日の恵み閑けきまつりごとおさまれる君世に栄ふかも」という歌を詠んだという内容だ。この歌が人の世となって初めて素盞嗚によって詠われた和歌であるとしている。
これはいわゆる中世日本紀とか中世神話とか称されるもののひとつで、身も蓋もない言い方をしてしまえばでっち上げの説話だ。安寧天皇の名はちらりと出てくるだけで、同じ話の登場人物が『古今和歌集序聞書 三流抄』では安寧天皇ではなく四代懿徳天皇になっている。要するに誰でも良かったのだろうが、事績のない天皇だからこそその名が使われたとも言える。
◆安寧天皇陵 御陵印

安寧天皇の名は磯城津彦玉手看(師木津日子玉手見)である。
磯城は大和盆地の中央に位置し、「敷島」とも称ばれた「原ヤマト」の地。この地には兄磯城【えしき】と弟磯城【おとしき】がいたが、弟磯城こと黒速【くろはや】は東征の神武天皇に帰順し、その功により磯城県主に任じられたという。
二代綏靖から九代開化までの欠史八代のうち、別伝も含めると綏靖から七代孝霊までの実に六代にわたって、磯城県主一族から后を迎えている。磯城県主が初期ヤマト王権と密接な関係を持つ有力豪族であったことを物語るが、その中にあって安寧天皇だけが特に「磯城津彦」を名乗り、のみならずその皇子(四代懿徳天皇の弟)も磯城津彦を称す。
このことからは、安寧天皇が磯城県主の血を引くことを強調する意図が読みとれる。かつて大和の地を席巻した磯城県主の末裔が、先祖の誇りをその名に込めたのだろうか。
参考文献:
◇橿原市史編纂委員会(編)『橿原市史』 橿原市役所 1962
◇片桐洋一『中世古今集注釈書解題 二』 赤尾照文堂 1973
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇改訂橿原市史編纂委員会(編)『橿原市史 上巻』 橿原市役所 1987
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程なく生垣で囲われた拝所が現れる。拝所はアネ山の東側に設けられ、西へ向かって陵を拝する形だ。
◆安寧天皇陵 拝所

安寧天皇 畝傍山西南御陰井上陵【あんねいてんのう うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ】
所在地: 奈良県橿原市吉田町西山
管轄: 宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所
被葬者:
第三代安寧天皇(磯城津彦玉手看尊【しきつひこたまてみ】)
延喜諸陵式: 畝傍山西南御蔭井上陵 片鹽浮穴宮御宇安寧天皇 在大和國高市郡 兆域東西三町南北二町 守戸五烟 遠陵
分類: 天皇陵
形態: 山形
考古学名: アネ山古墳
所在地: 奈良県橿原市吉田町西山
管轄: 宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所
被葬者:
第三代安寧天皇(磯城津彦玉手看尊【しきつひこたまてみ】)
延喜諸陵式: 畝傍山西南御蔭井上陵 片鹽浮穴宮御宇安寧天皇 在大和國高市郡 兆域東西三町南北二町 守戸五烟 遠陵
分類: 天皇陵
形態: 山形
考古学名: アネ山古墳
◆安寧天皇陵 制札

アネ山は畝傍山からのびる尾根の最西端にあたる。道路によって分断されているため独立した丘陵のように見え、いかにも人工の古墳のように思ってしまうが、自然地形であり、古墳かどうかは定かでない。
谷森善臣は嘉永四年(1851)の『藺笠のしづく』で、アネ山の上に小祠が東面して建っていたことを記しているが、現在も残っているかはわからない。
一説にはこの祠がマナゴ山に遷され安寧天皇神社となったともいうが、この説には疑問点があり、精査を要する。
◆安寧天皇陵 拝所

安寧天皇陵の所在について、『古事記』は「畝火山之美富登」にあるとする。「美富登【みほと】」が固有の地名なのか一般名詞なのかはっきりしない。「ホト」は女陰を表わす言葉でもあるが、この場合は山間の窪んだ場所といったような意味だろうか。
一方『日本書紀』には「畝傍山南御陰井上陵」と記される。畝傍山の南の「御陰【みほと】」にある井戸、または「御陰井」という名の井戸の上ということか。
『延喜式』は「畝傍山西南御蔭井上陵」とする。『日本書紀』に準じているようだが、「南」ではなく「西南」とし、さらに「陰【ほと】」ではなく「蔭【かげ】」となっている。このことについて、女陰のイメージを忌避して意図的に変換したと推測したのは本居宣長である。
その、陵号の由来となったとされる御陰井は陵の南、吉田の集落内に現存する。石柵で囲われ蓋がされている。陵とともに宮内庁の管理下にある。
◆御陰井

安寧天皇は記紀には系譜が記載されているのみで事績の伝わらない「欠史」の天皇である。
ただ、国立国会図書館蔵『古今和歌集序註』では安寧天皇の出雲行幸が語られる。安寧天皇が出雲で素盞嗚尊に面会し、還御の際に素盞嗚が「天津日の恵み閑けきまつりごとおさまれる君世に栄ふかも」という歌を詠んだという内容だ。この歌が人の世となって初めて素盞嗚によって詠われた和歌であるとしている。
これはいわゆる中世日本紀とか中世神話とか称されるもののひとつで、身も蓋もない言い方をしてしまえばでっち上げの説話だ。安寧天皇の名はちらりと出てくるだけで、同じ話の登場人物が『古今和歌集序聞書 三流抄』では安寧天皇ではなく四代懿徳天皇になっている。要するに誰でも良かったのだろうが、事績のない天皇だからこそその名が使われたとも言える。
◆安寧天皇陵 御陵印

安寧天皇の名は磯城津彦玉手看(師木津日子玉手見)である。
磯城は大和盆地の中央に位置し、「敷島」とも称ばれた「原ヤマト」の地。この地には兄磯城【えしき】と弟磯城【おとしき】がいたが、弟磯城こと黒速【くろはや】は東征の神武天皇に帰順し、その功により磯城県主に任じられたという。
二代綏靖から九代開化までの欠史八代のうち、別伝も含めると綏靖から七代孝霊までの実に六代にわたって、磯城県主一族から后を迎えている。磯城県主が初期ヤマト王権と密接な関係を持つ有力豪族であったことを物語るが、その中にあって安寧天皇だけが特に「磯城津彦」を名乗り、のみならずその皇子(四代懿徳天皇の弟)も磯城津彦を称す。
このことからは、安寧天皇が磯城県主の血を引くことを強調する意図が読みとれる。かつて大和の地を席巻した磯城県主の末裔が、先祖の誇りをその名に込めたのだろうか。
《続く》
参考文献:
◇橿原市史編纂委員会(編)『橿原市史』 橿原市役所 1962
◇片桐洋一『中世古今集注釈書解題 二』 赤尾照文堂 1973
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇改訂橿原市史編纂委員会(編)『橿原市史 上巻』 橿原市役所 1987
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