畝傍山の南、三方を山に囲まれたマナゴ谷。その西側の丘陵はマナゴ山、またはマサゴ山と称ばれている。
 マナゴ谷の中央、懿徳天皇畝傍山南繊沙渓上陵の南面に設けられた拝所から北西に進み、南方向に坂を下ってマナゴ山の西側に回り込む。果樹園の中を細い道がマナゴ山に向かってのびている。石段を上った先に第三代安寧天皇を祀る小さな神社が鎮座する。

◆安寧天皇神社 参道
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安寧天皇神社【あんねいてんのうじんじゃ】

鎮座地: 奈良県橿原市吉田町垣内257

包括: 神社本庁

御祭神:
磯城津彦玉手看命【しきつひこたまてみ】(安寧天皇)

創建: 不詳

社格等: 旧村社

別称/旧称: 安寧宮 安寧帝宮 吉田神社


◆安寧天皇神社 鳥居
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「西のかたなる真名子山に登りて、尾上を西北に登れば、西向に安寧天皇を祭たる宮あり。此辺安寧天皇の陵なりとはきけど、今見るに陵墓の形もなく、たゞおのづからなる山の上に、宮を立たりぞありける。西へ下るゝ道あれば、くだる麓に陵の制札立たり」――谷森善臣『藺笠のしづく』

 開発によりマナゴ山にかつての面影はないというが、現在残る丘陵の北部、「旭丘」と称する辺りに安寧天皇神社はある。
 現在安寧天皇陵とされているのは神社の北西三百メートルの通称「アネ山」(「花陰山」とも)だが、元禄十年(1697)から三年をかけて行われた元禄の修陵で安寧陵とされたのはこの安寧天皇神社のあるマナゴ山だった。 先に引用したように嘉永四年(1851)の『藺笠のしづく』には安寧天皇神社の西の麓に陵域であることを示す制札が立っていることが記されているし、嘉永七年(1854)の津久井清影『聖蹟図志』にも「安寧祠」の参道入口付近に制札らしきものが描かれている。文久二年(1862)から始まる文久の修陵でアネ山が陵に治定されるまで、地元では長きに渡って安寧陵として認識されていたようだ。
 しかし享保十九年(1734)の『大和志』では「畝傍山西南御蔭井上陵 吉田村御蔭井ノ西北ノ丘ニ在リ 祠廟ハ井ノ東南ニ在リ」と、アネ山を安寧陵、安寧天皇神社を安寧帝を祀る廟としており、当時から異論のあったことが窺える。学者の間ではアネ山説が大勢を占めていた感もあり、蒲生君平も文化五年(1808)の『山陵志』で「阿禰山」を陵としているし、『藺笠のしづく』『聖蹟図志』もマナゴ山説を否定してアネ山を真陵とする。

◆安寧天皇神社 拝殿
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 昭和三十七年(1962)版『橿原市史』によると、天正三年(1575)の畝傍山古図にはこの神社がアネ山頂上に描かれているといい、その後現在地に移転したという。遷座の時期と理由には言及していない。
 ネット上には、アネ山が安寧陵に治定されるのに伴い幕末または明治期にアネ山から現在地に遷座したとする記事が散見される。しかしこれは明らかに誤っている。『藺笠のしづく』はマナゴ山の「安寧天皇を祭たる宮」を訪れた後アネ山にも登り、丘陵上に「東向たる小社」があると記している。『聖蹟図志』もマナゴ山付近の「安寧祠」とともに、アネ山にも社らしきものを描いている。またそれ以前、元禄の修陵より後に成立した文書の写本と推定される『山陵図絵』の安寧陵には燈籠と社殿が描かれているが、社は西面しており、マナゴ山の安寧天皇神社を描いたものと見て差し支えない。
 つまり、江戸中期(元禄以降)には安寧天皇神社は現在地に既にあって、むしろそこに安寧帝を祀る神社があったからこそ元禄期に陵とみなされたのであり、そして少なくとも幕末期(嘉永頃)には安寧天皇神社と同時にアネ山にも(陵に治定されるまでは)社が存在していたのである。いわば移転したのは神社ではなく陵の方であるというわけだ。
 そうなると、当社がアネ山から遷座したこと自体を疑ってかかる必要がある。遷座が事実としても、それは幕末や明治ではなく、元禄以前のことであるはずだ。

◆安寧天皇神社 拝殿
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◆安寧天皇神社 本殿
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 祭神が磯城津彦玉手看命、漢風諡号安寧天皇であることは社名から自明であり、陵であるとする伝承があったことからも、古くから安寧天皇を祀っていたと考えてよかろう。
 ところが、寛政七年(1795)の棟札に「天照皇大神」とあるという。そういえば境内社として豊受姫神を祀る豊受神社があり、本殿の向かって右に同列に並ぶように配置されている。天照と豊受、伊勢内外両宮の神を並び祀ったと考えればしっくりはくる。
 このことについては遷座の謎と合わせて検証すべきだろう。

 また、『山陵図絵』には「畝傍山ノ神功ノ若宮」ともある。畝傍山の神功とは往時畝傍山の山頂にあり神功皇后を祀った畝火山口神社のことだ。吉田村は畝火社の宮郷であったというから、それによるものだろう。

◆安寧天皇神社末社 豊受神社(豊受姫神)
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◆安寧天皇神社末社 稲荷神社(保食神)
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 住宅地の裏山といった体の小さな丘の上に建つ神社だが、鬱蒼とした森に包まれた神域は外界と隔絶され、異界へと続くかのような参道の雰囲気も相俟って、古代の時空に迷い込んだ気分に束の間浸る。が、社殿の背後に置かれたオレンジ色の重機が視界に入って我に返った。まあご愛嬌か。
《続く》

参考文献:
◇『大和国高市郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1879
◇橿原市史編纂委員会(編)『橿原市史』 橿原市役所 1962
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇改訂橿原市史編纂委員会(編)『橿原市史 上巻』 橿原市役所 1987


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