西池尻八幡神社を出て、来た道を北へ戻り、橿原神宮西の鳥居を右に見ながら更に北へ。民家の屋根の向こうにこんもりとした小山が見えてくる。生垣に挟まれた参道の先に神明鳥居。第四代懿徳天皇の御陵だ。

◆懿徳天皇陵 参道
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懿徳天皇 畝傍山南繊沙渓上陵【いとくてんのう うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ】

所在地: 奈良県橿原市西池尻町丸山

管轄: 宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所

被葬者:
第四代懿徳天皇(大日本彦耜友尊【おおやまとひこすきとも】)

延喜諸陵式: 畝傍山南纖沙溪上陵 輕曲峽宮御宇懿德天皇 在大和國高市郡 兆域東西一町南北一町 守戸五烟 遠陵

分類: 天皇陵

形態: 山形

考古学名: 丸山古墳


◆懿徳天皇陵 制札
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 懿徳天皇は第三代安寧天皇の第二皇子で、初代神武天皇の曾孫にあたる。
 橿原市大軽町付近に比定される軽曲峡宮【かるのまがりおのみや】(『古事記』では軽之境岡宮【かるのさかいおかのみや】)に皇居を構え三十四年間統治したとされているが、記紀には具体的な事績が記されていない。二代から九代天皇までのいわゆる欠史八代に含まれ、皇統の古さを装い権威を高めるために創作された存在ともいわれる。

 鎌倉時代後期の『古今和歌集序聞書 三流抄』には、懿徳天皇が出雲に行幸した際に素盞雄尊と対面したという記述がある(「日本紀ヲ見ルニ」となっているが、『日本書紀』にそのような記事はない)。この時、見送る素盞雄尊は
 立ち還る道は山路の遠くとも尋ねば問はん問ふと知るかも
という歌を詠んで名残を惜しんだという。
 和歌の祖ともされるスサノオが初めて詠んだとされる三十一文字の和歌が「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」だが、「立ち還る……」は神代が終わり人の世となって初めて詠まれた和歌であるとする。
 因みに国立国会図書館蔵『古今和歌集序註』にも殆ど同じ説話が載っているが、こちらは安寧天皇の行幸時となっていて、詠まれた歌は「天津日の恵み閑けきまつりごとおさまれる君世に栄ふかも」としている。

◆懿徳天皇陵 拝所
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 御陵の鎮まる地一帯は「マナゴ谷」と称し、東は長山(橿原神宮社域)、北は西方へのびる畝傍山の尾根、西は「真砂山【まさごやま・まなごやま】」(安寧天皇神社が鎮座)と、三方を山に囲まれた土地。懿徳陵はそのほぼ中央に位置する。『日本書紀』では「畝傍山南纖沙溪上」、『古事記』では「畝火山之真名子谷上」を懿徳陵の所在地としている。懿徳陵に治定された最大の根拠はその地名である。

◆懿徳天皇陵 拝所
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 人工ではなく自然丘陵であると見られ、伝承では頂部に丸山と称する古墳らしきものがあったというが、域内に立ち入ることのできない現在、それを確かめることはできない。
 航空写真では前方後円墳のようにも見えるが、これは幕末の文久の修陵で前方後円型に生垣を巡らせたためだ。
 なお、七百メートル北東のイトクノモリ古墳も懿徳陵の候補地のひとつであった(一説に懿徳皇后陵とも)。



◆懿徳天皇陵 御陵印
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 懿徳天皇はオオヤマトヒコスキトモまたはオオヤマトヒコスキトモミミの名を持つ。「スキトモ」については、「スキツミ」の転であるとする説があるようだ。「スキ」は農具の鋤、「ツ」は「の」の意の格助詞、「ミ」は神霊を表す。つまり農具に宿る神、農耕神の姿が懿徳天皇に投影されているというのである。
 記紀に「鋤」の名を持つ神を探すと、味耜高彦根神【あぢすきたかひこね】がいる。大国主神と宗像三女神の一柱・田霧姫命【たぎりひめ】の子で、大和葛城に根を張った鴨氏が奉祭した高鴨神社(奈良県御所市)の神である。やはり農耕神であり、雷神でもあるとされる。また金属精錬との関連も指摘される。
 更に名の酷似した人物に御鉏友耳建日子【みすきともみみたけひこ】がいる。ヤマトタケルの東征に副官として従ったとされ、吉備臣の祖である。
 谷川健一は「ミミ」の名を持つ人物を南方の海人族の系譜に連なる者とし、鍛冶技術との縁由を持つ一族であるという。御鉏友耳建日子の根拠地とみられる吉備は「真金吹く」の枕詞を持つほど製鉄の盛んだった土地だ。
 懿徳天皇と御鉏友耳建日子の関連は不明だが、一考の余地はありそうだ。
《続く》

参考文献:
◇片桐洋一『中世古今集注釈書解題 二』 赤尾照文堂 1973
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇谷川健一『青銅の神の足跡』 小学館ライブラリー 1995


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