国源寺を後にして橿原神宮へ戻り、長山稲荷社、神饌田を過ぎて西の鳥居から神域外へ出る。南へ進み、近鉄南大阪線の線路を渡って少し歩くと左手に西池尻町の鎮守である八幡神社が鎮まる。

◆八幡神社 鳥居と拝殿
image

八幡神社【はちまんじんじゃ】

鎮座地: 奈良県橿原市西池尻町宮ノ前259

包括: 神社本庁

御祭神:
誉田別命【ほんだわけ】(応神天皇)

創建: 不詳

社格等: 旧村社


◆八幡神社 拝殿
image

 橿原市西池尻町は明治二十二年(1889)に周辺の村と合併して白橿村の一部となるまでは池尻村と称した。その名はかつて畝傍山の南に存在した益田池の畔にあったことによる。
 数キロメートル北東に橿原市東池尻町(旧桜井市池尻)があるが、こちらは磐余池の畔にあったことに由来する。昭和三十一年(1956)に桜井市池尻が橿原市に編入されて池尻の町名が同市内に二つ存在することになったため、それぞれ西池尻町・東池尻町と改称した。

◆八幡神社 拝殿
image

 八幡神社の東には、江戸時代にこの一帯六千石を領した大身旗本神保氏の陣屋がかつてあった。「元陣屋敷」の小字名が残るが、遺構は跡形もない。
 武家の神でもある八幡神を祀るこの神社を神保氏は篤く崇敬していたようだ。
 紀伊国有田郡出身の神保氏は代代紀伊畠山氏に属していたが、神保春茂のとき畠山氏が没落し、その後は豊臣家に仕えて大和に移った。春茂の子の相茂は関ヶ原以降徳川家の臣となる。相茂は大坂夏の陣で戦死するが、これは同じ徳川方である伊達政宗勢の射撃によるものだといわれる。有名な「伊達の味方討ち」である。その経緯についてはいろいろな説があるが、抗議を受けた政宗は「それが伊達の軍法である。神保勢が崩れてこちらに敗走してきたので共崩れを避けるために撃ったまで」と開き直ったという。

◆八幡神社 拝殿
image

 ところで、この八幡神社付近に第二代綏靖天皇の桃花鳥田丘上陵【つきたのおかのえのみささぎ】があるとする説があったらしい。
 嘉永七年(1854)の津久井清影(平塚飄斎)『聖蹟図志』には池尻村の文字の横に「一説排(原文ママ)鳥田丘上陵此村ニ在 今八幡宮ト称ス 綏靖帝陵ト云」と記されている。
 この説については幕末・明治の国学者谷森善臣が現地を訪れて考証している。谷森が慶応三年(1867)に幕府へ献上した『山陵考』の一節が『橿原市史』に引用されている。概要は以下の通り。

 ある人の説に、神保家池尻陣屋の東、字花園山の「水神山」は「スイゼイ山」の訛ったものであり、綏靖天皇陵であるという。
 花園山の最も高い所に祠が二基並んでいて、左殿は神保家の鎮守である三社権現(東照大権現・蔵王大権現・熊野大権現)、右殿が八大龍王を祀る。その南側は少し低まっていて四角く均してあり、そこに享和三年(1803)に建てられた稲荷の小社がある。
 八大龍王は文化二年(1805)に神保家によって年貢米豊饒のため水神として奉祀されたもので、雨乞いに霊験著しく、いつしかその場所を水神山と称ぶようになった。
 水神山の東側と南側には空堀があるが、もとよりこれは陣屋を守るために造られたものであって御陵の堀ではない。地形も御陵と思えるようなものではない。何より水神山の名は文化年間以後のことであって、古く言い伝えられたものではない。

 このように、谷森は水神山綏靖陵説をきっぱりと否定している。

 八幡神社の境内、鳥居正面にコンクリート製の覆屋があり、その中に祀られている三つの社は案内板によると稲荷社(食毛知命【うけもち】)・権現社(熊野大権現・金剛蔵王権現・東照大権現)・水神宮(八大龍王)である。これらは『山陵考』に見える水神山の三社が明治期に遷座したものと思われる。
 明治十二年(1879)の『大和国高市郡神社明細帳』では境内社「三柱神社」の祭神が少彦命【すくなひこ】・伊弉册命【いざなみ】・食毛知命となっている。明治の神仏判然令により三社権現が一時改変されたのだろう。権現号は仏教由来のものであるとして禁止されたのだ。
 拝殿の傍らにももう一つ覆屋があり、こちらには春日神社(天児屋根命【あめのこやね】)と皇大神社(天照大神【あまてらす】)の二社を祀る。

 八幡神社から東へ緩やかな斜面を上り、陣屋や水神山の痕跡が残っていないかと探してみたが、それらしいものは何一つみつからなかった。現在聖心学園中学校の建っている辺りが水神山だったろうか。

◆八幡神社 境内社三社(鳥居正面)
image

◆八幡神社 境内社二社(拝殿横)
image

 幕末・明治の激動は神仏の世界も人間界も翻弄した。
 旗本として徳川政権下を生き抜き大政奉還を迎えた神保家だったが、神保弾正忠は旧幕府側として戊辰戦争に加わり、明治新政府に抗して知行地を失った。
《続く》

参考文献:
◇『大和国高市郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1879
◇『寛政重修諸家譜 第十八』 続群書類従完成会 1965
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇改訂橿原市史編纂委員会(編)『橿原市史 上巻』 橿原市役所 1987


大きな地図で表示

このエントリーをはてなブックマークに追加