天延二年(974)三月十一日のこと、大和は高市郡畝傍山北東辺りの道を往く旅の僧の姿があった。
 白み始めた東の空には薄雲が細くたなびいている。他に往き交う人も無く、僧の土を踏みしめる微かな音だけが夜明けの澄んだ空気の中に響く。
 僧の名は蓮智房泰善。多武峯寺の第六代検校。検校とは座主に次ぐ地位で、寺における総務の監督責任者である。
 朝日が顔を出し始めた。
 泰善はふと振り返った。仰ぎ見る畝傍山は曙光を浴びてみるみる稜線を際立たせていく。その線をなぞるように、一羽の鵄が空を舞っている。太陽から放たれた光条に照らされて一瞬、鵄が金色に輝いたように見えた。
 前方に視線を戻した泰善は、道の先に誰かが立っているのに気づいた。
 いつからあそこにいたのだろう。
 痩せこけた老人だった。真っ白の髪を無造作にのばし、茅を編んだ簑を身につけたみすぼらしい姿。畝傍山の方を向いて身じろぎもせず立っている。
 会釈をして脇を通り過ぎようとする泰善に、
「そこな法師」
 老人が声をかけた。顔は畝傍山に向けたままだ。その声は低く、呟くようだったが、不思議とよく通った。
 泰善は立ち止まり、老人に向き直った。
「我が願いをば聞き入れられたい」
 願いとは、と訊こうとする泰善の言葉も待たず、老人は続ける。
「この地にて国家栄福のため一乗の経を講せられよ」
 一乗とは成仏のための唯一の教えということで、天台宗においては法華経を指す。
 老人の声と佇まいにただならぬものを感じた泰善は、名と住まいを訊ねた。
「我は人皇第一の国主なり。常にここに住んでおる」
 老人の言葉が終わるか終わらずかの瞬間、鵄が泰善と老人の間を鋭い風切り音とともに横切った。思わずのけぞり目を瞑った泰善。
 再び目を開いた時、老人の姿はどこにもなかった。
 頭上で鵄の啼き声が響いた。
 大きく旋回して東へと飛び去る鵄の姿を泰善は惘然と眺め続けていたが、やがて老人の立っていた方を向いて法華経を唱え始めた――。

 大久保神社から程近く、大久保町の住宅街の中に国源寺という小さな寺がある。神武天皇陵の陵寺として平安中期に草創されたと伝わる古寺だ。
 本堂庫裏とそれに続く観音堂、向かって左の敷地には地蔵堂や神祠らしきものがある。

◆国源寺 手前が観音堂
国源寺 手前が観音堂

神告山一乗院国源寺
【しんこくざんいちじょういんこくげんじ】


所在地: 奈良県橿原市大久保町寺内404

宗派: 浄土宗

御本尊:
阿弥陀如来

創建: 貞元二年(AD977)

開基: 藤原国光

開山: 蓮智房泰善法師


『多武峯略記』に拠ると、国源寺の縁起は次のようなものだ。
 多武峰寺(現在の談山神社)の検校であった泰善という僧が畝傍山の東北を歩いていた時、神武天皇が老翁の姿で顕れて託宣をおこなった。以来泰善は毎年三月十一日(神武天皇の崩御の日)にこの地を訪れ法華経を講していたが、時の大和国守護藤原国光がそのことを伝え聞き、託宣から三年後に方丈堂を建てて観音像を安置した。それが国源寺の始まりだという。

 国源寺が当初建っていたのは現在地ではなく、現神武天皇陵の東、字「塔垣内」の付近だと伝承される。礎石が残存するという。その場所は現在立ち入ることができないが、宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所の北にそれらしい区域を確認できる。
 現在地に遷されたのは鎌倉時代ともいわれるが定かではない。
 なお、移転の時期を明治初年、御陵修築に伴なってのこととする説があるが明らかに誤りである。神武陵が現陵に治定された「文久の修陵」以前の江戸期に描かれた絵図を見ると、大久保(大窪)村の集落内に国源寺がはっきりと描かれており、勿論当時「神武田」と称した現神武陵の周辺に寺院らしきものは一切描かれていない。国源寺は明治期に一度廃寺になってその後復興しているが、そのことが混乱を招いたものか。

◆国源寺 観音堂
国源寺 観音堂

 観音堂の現在の本尊は不空羂索観音立像で、台座の墨書銘から永禄六年(1563)宿院仏師源次の作であることがわかる。大和西国三十三観音霊場の第十五番札所で、御詠歌は「かけまくもかたじけなうやみなもとのなをゆくすへのやまとをおもへば」。
 観音堂には他に鎌倉期作の聖徳太子二歳像が安置されている。上半身が裸形で合掌する姿の「南無仏太子」と称されるもので、頭部内面に正安四年(1302)九月二十六日の墨書がある。南無仏太子像としてはボストン博物館所蔵の正応五年(1292)銘の像があるが、国内に現存するものの中ではこの像が最古という。

◆国源寺 神祠と地蔵堂
国源寺 神祠と地蔵堂

 国源寺の路地を挟んだ向かい、公民館の敷地に大きな石が置かれている。これは大正元年(1912)に付近で発掘された仏塔の心礎で、国源寺が移転して来る前にこの地にあったという大窪寺のものとされる。
 大窪寺については創建時期等確かなことは判っていない。一説には推古天皇二十六年(618)、高句麗僧慧慈と百済僧慧聡のために建てられたともいわれる。『日本書紀』天武天皇朱鳥元年(686)八月己丑条に「檜隈寺軽寺大窪寺ニ各百戸ヲ封ズ」とあるのが正史に見える初見である。
 塔心礎は飛鳥時代の特徴を有し、また周辺からは白鳳期の瓦が多数出土している。
 周辺には今度(金堂)や門の前といった小字名が残り、四天王寺式もしくは山田寺式伽藍配置が想定される。観音堂の辺りが大窪寺の金堂跡地と推定されているが、大窪寺がいつ頃まで存続したのか、何故国源寺が大窪寺跡地に移転したのかは不明。

◆大窪廃寺 塔心礎
大窪廃寺 塔心礎

 諸説あった神武天皇陵の所在が神武田と称ばれた場所に決まった顛末はこちらに書いたが、神武田の周囲より少し高くなった区域が「延喜式」の『兆域東西一町南北二町』とほぼ合致するため神武陵で間違いないともされる一方で、それに疑問を呈する声も今なお絶えない。その中でも、実は神武田は国源寺の基壇跡だとする説は根強く支持されている。
 例えば蒲生君平はこう述べる。神武田の一名を美賛佐伊【みさんざい】ともいうが、これは美佐佐岐【みささぎ】の訛であり山陵を指す。山陵と廟は混同され易い。美賛佐伊というのはかつて神武の祀廟があったからであろう。国源寺はかつて神武田の傍らから大窪村に移転したと伝えるが、祀廟はその寺中にあったに違いない(『山陵志』)。
 現神武陵より少し南の丸山を真陵と考えていた蒲生は、神武田の地を陵寺であった国源寺の建っていた場所だとし、神武を祀る廟堂があったのを陵そのものと訛伝したのだろうと推測したのである。

 今、その場所は国祖の眠る侵さざるべき聖域となっている。本当のことはもはやわからない。
 全てを見てきたであろう畝傍の山も、黙して何も語らない。
《続く》


参考文献:
◇『多武峯略記 巻下』(『新校群書類従 第十九巻』所収) 内外書籍 1932
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典29 奈良県』 角川書店 1990
◇水野正好ほか『「天皇陵」総覧』 新人物往来社 1994
◇林宗甫『大和名所記 ―和州旧跡幽考―』(版本地誌大系 一) 臨川書店 2001


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