♪Interlude #2: "Epitaph"
King Crimson
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池田神社を後にして遊歩道を更に歩くと車道(神宮公苑線)に出る。広い歩道を北へ進むと、間もなく神武天皇陵へ続く参道の入口が現れる。
◆神武天皇陵 制札

玉砂利の敷き詰められた参道は大きく右にカーヴした後、御陵の拝所へ向かって真っ直ぐにのびている。
拝所の鳥居が段段と大きくなる。
拝所前の広場に差し掛かる少し手前の左側に短い石段があり、森の中を小道が続いている。この道を行くと畝傍山北側の山本町方面へ出るが、今は拝所を目指す。
◆神武天皇陵 参道

初代神武帝の葬られたとする御陵の所在地について『日本書紀』は「畝傍山東北」、『古事記』は「畝火山之北方白檮尾上」と記す。
また平安時代の『延喜式』巻第二十一の諸陵寮の項には同寮の管理していた陵墓が列記されているが、そこにも『日本書紀』に準じ「畝傍山東北陵」の名で載っている。
何らかの史実を反映して造り出された人物との見解もあるが、いずれにせよ非実在説が大勢を占める神武天皇。架空人物の墓など莫迦莫迦しいと断じる声も聴くが、その批判は的外れであろう。少なくとも律令制下において国家の始祖の埋葬施設と称するものがあり、治部省の下部組織によって管理・祭祀が行われていたのは事実なのだ。実在人物であるかどうかは問題ではない。
神武天皇 畝傍山東北陵【じんむてんのう うねびやまのうしとらのすみのみささぎ】
所在地: 奈良県橿原市大久保町ミサンザイ
管轄: 宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所
被葬者:
第一代神武天皇(神日本磐余彦尊【かむやまといわれひこ】)
延喜諸陵式: 畝傍山東北陵 畝傍橿原宮御宇神武天皇 在大和國高市郡 兆域東西一町南北二町 守戸五烟 遠陵
分類: 天皇陵
形態: 円丘
考古学名: 山本ミサンザイ古墳
所在地: 奈良県橿原市大久保町ミサンザイ
管轄: 宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所
被葬者:
第一代神武天皇(神日本磐余彦尊【かむやまといわれひこ】)
延喜諸陵式: 畝傍山東北陵 畝傍橿原宮御宇神武天皇 在大和國高市郡 兆域東西一町南北二町 守戸五烟 遠陵
分類: 天皇陵
形態: 円丘
考古学名: 山本ミサンザイ古墳
律令時代には確かに存在した神武陵だが、時は流れ、いつしかその所在は他の多くの天皇陵と同様わからなくなっていた。
江戸時代に入ると、国学の興隆とともに天皇陵の探索が次第に盛んになっていく。
現陵が神武天皇陵として公式に治定されたのは尊皇攘夷運動が最高潮に達していた文久三年(1863)、大政奉還の四年前のことだが、そこへ到るまでの道程はまさに「彷徨」であった。
◆神武天皇陵 拝所

当時、神武天皇陵の有力候補は三つあった。
一つは「神武田【じぶでん】」とか「ミサンザイ」とか称ばれていた現陵。
一つは現陵の北、「塚山」「福塚」と称した現在の二代綏靖天皇陵。
そしてもう一つが現陵の南、畝傍山の山裾で「丸山」とも「御殿山」ともいわれた場所。
神武陵について書かれた江戸期における最も古い文献は延宝三年(1675)の『南都名所集』である。その「畝傍山」の項に「御陵のしるしの石あり」「石ハ神武田【じんむでん】と云」と記し、田圃の中の小さな塚と、畦道でしゃがみ塚に向かって手を合わせる人物が描かれる。
嘉永二年(1849)の『神武御陵考』で川路聖謨は「山本村の田のうちに凡貮尺はかりの高さなる丘あり夫をも神武の御陵と里人らはたゝへて其ほとりをミサンサイといひうちめくりたる田を神武田といふ 同し所に同し高さの丘一つあり夫をも神武の御陵也といふ」と書いている。高さ二尺といえば六十センチメートル余り。そのようなごく小さな丘が二つあってその辺りをミサンザイと称したという。「ミサンザイ」は「みささぎ(御陵)」の転といわれ、同名の古墳が奈良県や大阪府に複数存在する。
ともに元禄九年(1696)成立の松下見林『前王廟陵記』や貝原益軒『和州巡覧記』も神武田を神武陵とする。
ところが、翌元禄十年(1697)から始まる江戸幕府による最初の天皇陵整備事業、いわゆる「元禄の修陵」において神武陵とされたのは、神武田の数百メートル北に位置する塚山(現綏靖天皇陵)だった。
どのような経緯でその決定に到ったのかは定かでないが、直径約三十メートルの墳丘を持つ円墳と見られるこの塚が、当時の神武田に比べて数段大きく立派であったのが理由のひとつとなったであろうことは推察できる。この辺りは古代には古墳の密集地であった(四条古墳群)が、それらは七世紀末の藤原京造営に際して削平されたという。その中にあって塚山が破壊されずに残されたのは、特別な意味を持つ古墳、即ち初代天皇を葬った場所であったからでは、というわけだ。
一方、神武田にしても塚山にしても平地にあって、古事記の「畝傍山の北に連なる尾根の上にある」とする記述に合わないという声もあった。そこで登場するのが「丸山」説である。
丸山は神武田の数百メートル南、畝傍山山頂から東北の山裾にある。江戸時代の絵図を見るとその名の通り丸く隆起して墳丘のようにも思える(現在は森に覆われて地形は全く判然としない)。
寛政六年(1794)の竹口英斎『陵墓志』や文化五年(1808)の蒲生君平『山陵志』等が丸山説を主張し、十九世紀前半には多くの学者が支持する最有力説となっていたようだ。
ただ神武田に伝承があったのも事実である。
丸山説を唱える蒲生君平や嘉永元年(1848)の北浦定政『打墨縄』は神武田を神武天皇の祀廟があった場所とした。神武陵に隣接して建てられた神武を祀る廟堂の跡が、いつしか陵自体であるとする伝承に変化したとする説だ。
竹口英斎は丸山説を採りながらも、神武田をかつての陵の一部であるとした。
塚山を真陵とした川路聖謨もまた、同様の考えで塚山と神武田を含めた区域がかつての陵の兆域であろうと推測した。
安政二年(1855)の『御陵並帝陵内歟と御沙汰之場所奉見伺候書付』(奈良奉行所による調査報告書)は、ミサンザイ(神武田)の地が周辺よりも三尺ほど高くなっているとし、上古は畝傍山からミサンザイを経て塚山まで丘陵の続きであって、またミサンザイは御陵山を意味するから、同地を神武陵とすることに問題はないと述べている。この資料は後年の神武田治定にあたって大いに参考とされたようだ。
◆神武天皇陵 拝所

幕末、尊王攘夷運動と公武合体論の高まる中、幕府による「文久の修陵」が宇都宮藩が中心となって開始され、百を超える陵墓の修理・整備が行われた。文久二年(1862)のことだ。
この事業はそれまでにも幾度か行われた修陵とは異なり、政局と密接に関わる重要事項であった。そしてその中でも帝祖神武陵の確定が格別の意味を持っていたことは言うまでもない。
宇都宮藩家老戸田忠至が山陵奉行に任じられ、その差配の下、谷森善臣・平塚瓢斎・北浦定政らが考証に当たった。
神武田説の谷森と丸山説の北浦それぞれの主張が検討され、最終的には孝明天皇の叡慮を仰ぐという形で文久三年(1863)二月十七日、神武田に決着した。しかし、御所に提出された両者の意見書のうち、北浦のものにだけ谷森の反論が付されており、明らかに公平とは言い難いものであった。これは神武田が神武陵として治定されることが既定路線であったことを窺わせる。
その裏事情については政治的な思惑の絡んだ複雑なものであろうと推測できる。一説には孝明天皇の大和行幸が予定より早まったことが大きく作用したともいう。丸山は山本村の枝郷・洞村の集落内にあり、住民を立ち退かせて整備するだけの時間を取れなかったのが採用されなかった理由だというのだ。洞村は穢多の村だった。
同年五月、工事が開始され、神武田の二つの塚を囲う垣と堀が設けられた。
こうして、神武天皇陵を巡る「真実」の彷徨は一応の終着を迎える。
その後、明治二十三年(1890)の橿原神宮創建等を経て、明治三十一年(1898)、現在の墳丘が造成された。二つの塚をつなぐ形で土盛りし、直径約三十三メートル、高さ約六メートルの一つの大きな墳丘となった。
以後、神武天皇陵と橿原神宮を中心とする畝傍山神苑が段階的に整備されていく。住民及び耕作地や墓地等の移転が実施され(前述の洞村も結局は移転している)、大規模な植樹が行われた。
そして昭和十五年(1940)、紀元二千六百年の記念すべき年に、神武聖蹟に相応しい荘厳な景観が完成を見る。
◆畝傍山東北陵 御陵印

参道を戻り、西側の山本町へと向かう道に入る。そのまま進めば程なく森を抜けて集落に出るのだが、道に入ってすぐに左の森の奥にのびる小道を上っていくと、洞村跡を経て丸山に到る。
しかし森に足を踏み入れかけて、考え直す。
その場所はこの「彷徨」の最後に訪れるのが相応しい気がする。何故かと問われるとうまく答えられないが、そんな気がするのだった。
Confusion will be my epitaph
混乱こそが我が墓碑銘となろう
"Epitaph"
『エピタフ〈墓碑銘〉』
混乱こそが我が墓碑銘となろう
"Epitaph"
『エピタフ〈墓碑銘〉』
《続く》
参考文献:
◇藤井甚太郎(編)『川路聖謨文書 第八』 日本史籍協会 1934
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974
◇水野正好ほか『「天皇陵」総覧』 新人物往来社 1994
◇太田叙親/村井道弘『南都名所集』 臨川書店 2010
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