東大谷日女命神社を出て橿原神宮北参道に戻り、北の鳥居に向かって更に歩くとすぐに参道は遊歩道と交わる。遊歩道を左に辿ると戦没者を慰霊する若桜友苑があり、その入口脇に「イトクの森古墳(池田神社)」の石標。奥に灯籠と白い塀が見える。

◆イトクノモリ古墳上の池田神社
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池田神社【いけだじんじゃ】

鎮座地: 奈良県橿原市畝傍町池田46

包括: 神社本庁

御祭神:
大日本彦耜友尊【おおやまとひこすきとも】(懿徳天皇)

創建: 不詳

社格等: 旧無格社

別称/旧称: 懿徳天皇社 懿徳帝社 下の宮

第四代懿徳天皇を祀る池田神社は旧畝傍村の鎮守で、東大谷日女命神社(熊野神社)の「上の宮」に対して「下の宮」と称ばれた。
「懿徳の森」なる名のついた古墳の上に建っているそうだが、一見してそれとは判らない。
拝殿はなく、塀で囲まれた神域に小さな祠があるのみ。
幕末の津久井清影(平塚飄斎)による陵墓周辺の詳細な絵図集『聖蹟図志』には「懿徳帝社」として描かれている。

◆池田神社
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イトクノモリ古墳は全長およそ30メートルの前方後円墳だが、明治四十一年(1908)に前方部が削られ現在は池田神社の建つ後円部のみとなっている。
現在懿徳天皇のものとされている陵は畝傍山南西にあるが、畝傍山東麓のこのイトクノモリ古墳を同陵とする伝承もあった。
また懿徳天皇の皇后天豊津媛命の陵といわれたこともあるようだが、その経緯と根拠はよくわからない。懿徳陵の候補から外されたことで新たに皇后陵と称したといったことも考えられる。

江戸中期から後期の成立と推定される『山陵図絵』(著者不詳)は「和州高市郡畝傍村 畑中林ノ内ニ小社アリ 氏神ニテ神事アリ」という一文とともに、墳丘とその上に南面して建つ社殿及び灯籠を懿徳陵として描く。これはイトクノモリ古墳と池田神社であると思われる。

寛政十二年(1801)頃の成立で「前方後円墳」という言葉を初めて用いたことで知られる蒲生君平『山陵志』では、懿徳陵について(畝傍山の)「南ニ在リ」とした上で「今繊沙山ト呼ブハ繊沙ノ渓間ニ布露スルヲ以テ也。其ノ地ハ畝旁村。安寧及ビ此ノ陵ハ並ビニ祠ノ陵上ニ在ル有リ。凡ソ陵地ニ祠ヲ建テ祀ヲ奉ズルコト往往ニ之有リ。未ダ其ノ何世ニ於イテ昉マリシヲ審ラカニセザル也」(懿徳陵所在地を今繊沙山【まなごやま】と称するのは真砂【まさご・まなご】=細かい砂が谷間に広がっているからである。そこは畝傍村に属する。安寧天皇陵とこの陵にはともに祠が祀られている。そうした例はしばしばあるが、いつ頃から始まったことなのかはわかっていない)と記す。
懿徳陵は『日本書紀』では「畝傍山南纖沙溪上」、『古事記』では「畝火山之真名子谷上」にあると記されていて、近辺にマナゴ山・マナゴ谷という地名があることが大きな根拠となり畝傍山西南の現在地に治定された。
畝傍山の南、マナゴ山に懿徳陵があるという『山陵志』の記述は現在の治定陵を指しているとみて差し支えないが、畝傍村にあり陵上に祠が建つというのはイトクノモリ古墳のことであるように思える。懿徳陵の所在地は畝傍村ではなく池尻村(現橿原市西池尻町)である。情報の混乱があったものか。
ややこしいことに、マナゴ谷付近にも「池田」という小字名があるともいう。
《続く》

参考文献:
◇遠藤鎮雄(訳編)『史料天皇陵』 新人物往来社 1974


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