あいにくの雨だったが、元日から一月十五日まで弁財天像・羅刹天像が公開されているというので岩船寺を訪れた。
◆岩船寺 三重塔

◆岩船寺 山門

石段を上っていると一段と雨勢が強くなる。
山門をくぐる。境内には他に人影はない。薄鈍色の風景の中で三重塔の朱が鮮やかに浮かび上がる。
岩船寺は天平時代に行基により鳴川の地に建てられた阿弥陀堂をそのルーツとすると伝える。鳴川は岩船寺から南へ直線距離にして約一キロメートル、現在の奈良市東鳴川町。
のち、弘法大師空海がその地に善根寺を整備、空海の甥である智泉大徳が嵯峨天皇の皇子誕生を祈願して善根寺内に報恩院を建立した。弘安二年(1279)その報恩院を現在地に遷したのが岩船寺であるという。
隣接する白山神社は岩船寺の鎮守社だったが、明治になって分離している。
本尊の阿弥陀如来は像高およそ二百八十センチメートルの丈六坐像で欅の一木造り。四方を四天王に護持され、どっしりと鎮座する。とても力強さを感じる像だ。天慶九年(946)の銘があり、宇治平等院の阿弥陀像より百年古いことになる。
本尊の背後に回ると、まずは騎象普賢菩薩が迎えてくれる。智泉の作と伝わり、元は三重塔に納められていたもの。
続いて我がお気に入りの十二神将。四頭身くらいのなんとも愛嬌のある姿は何度見ても見飽きない。ここからそう遠くない南明寺(奈良市阪原町)の四天王がこれによく似ていた。本来は十二神将だったのが四躯だけ残ったものともいわれていたな確か。それと矢田の東明寺(大和郡山市矢田町)にも同じような十二神将があったと記憶する。
さて公開中の秘仏、弁財天と羅刹天。いずれも小さな像で江戸時代のもの。――あれ、前に来た時にも見たような気もする。厨子の開扉は一月元日から十五日及び四月一日から五月三十一日と書いてある。この時期に来たことはない筈だが。平城遷都千三百年の時に特別公開でもしていたのだったろうか。いや、思い過ごしかもしれないけれど。
◆岩船寺 本堂

門前に置かれている石風呂はかつて僧侶が入山前に身を浄めたといわれる。一説にこれが寺号の由来となったともされるが、果たしてどうだろう。確かにどこにでもあるものではないが、名として採用するほど珍しいものとも思えない。
◆岩船寺 石風呂

この日は悪天候のため登らなかったのだが、寺の後方の御本陣山(貝吹山)の山頂付近に貝吹岩と称するものがある。最盛期には三十九もの寺坊が建ち並んでいたという岩船寺だが、全山の僧に合図を送る際にこの岩の上に立って法螺貝を吹いたと伝わる。
◆貝吹岩(夏に撮影)

この岩を見た時に直感した。これは磐座【いわくら】だと。そしてこの貝吹岩こそが「岩船」であり、岩船寺の名の由来だと確信した。
磐座とは神の降臨する場所、あるいは御神体そのものとされ、信仰の対象となった岩である。
岩船寺がこの地に建てられる以前、ここは磐座信仰の祭祀場だったのではなかろうか。古代からの聖域に新たに寺社を建立するというのは、殊更に実例を挙げるまでもなくままあることだ。
「イワフネ」というと大阪府交野市の磐船神社や同河南町の磐船大神社を即座に思い出す。どちらも船を思わせる巨石を磐座として祀る神社であり、「天磐船」に乗って天降った物部氏の神ニギハヤヒを奉祭する。
岩船寺の在する当尾【とうの】の地に物部氏の足跡は見当たらないし、ニギハヤヒを祀った場所だなどと言うつもりは勿論ないが、世俗化した南都仏教を厭う僧の隠遁の地となり、石仏の里と称されるこの当尾には、古い神の気配が確かに感じられるのである。
◆岩船寺 御朱印 「本尊阿弥陀如来」

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◆岩船寺 三重塔

高雄山報恩院岩船寺
【こうゆうざんほうおんいんがんせんじ】
所在地: 京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43
宗派: 真言律宗
御本尊:
阿弥陀如来
創建: 天平元年(AD729)または天平勝宝元年(AD749)
開山: 行基菩薩
寺格等: 真言律宗由緒寺
別称/旧称: 善根寺報恩院
【こうゆうざんほうおんいんがんせんじ】
所在地: 京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43
宗派: 真言律宗
御本尊:
阿弥陀如来
創建: 天平元年(AD729)または天平勝宝元年(AD749)
開山: 行基菩薩
寺格等: 真言律宗由緒寺
別称/旧称: 善根寺報恩院
◆岩船寺 山門

石段を上っていると一段と雨勢が強くなる。
山門をくぐる。境内には他に人影はない。薄鈍色の風景の中で三重塔の朱が鮮やかに浮かび上がる。
岩船寺は天平時代に行基により鳴川の地に建てられた阿弥陀堂をそのルーツとすると伝える。鳴川は岩船寺から南へ直線距離にして約一キロメートル、現在の奈良市東鳴川町。
のち、弘法大師空海がその地に善根寺を整備、空海の甥である智泉大徳が嵯峨天皇の皇子誕生を祈願して善根寺内に報恩院を建立した。弘安二年(1279)その報恩院を現在地に遷したのが岩船寺であるという。
隣接する白山神社は岩船寺の鎮守社だったが、明治になって分離している。
本尊の阿弥陀如来は像高およそ二百八十センチメートルの丈六坐像で欅の一木造り。四方を四天王に護持され、どっしりと鎮座する。とても力強さを感じる像だ。天慶九年(946)の銘があり、宇治平等院の阿弥陀像より百年古いことになる。
本尊の背後に回ると、まずは騎象普賢菩薩が迎えてくれる。智泉の作と伝わり、元は三重塔に納められていたもの。
続いて我がお気に入りの十二神将。四頭身くらいのなんとも愛嬌のある姿は何度見ても見飽きない。ここからそう遠くない南明寺(奈良市阪原町)の四天王がこれによく似ていた。本来は十二神将だったのが四躯だけ残ったものともいわれていたな確か。それと矢田の東明寺(大和郡山市矢田町)にも同じような十二神将があったと記憶する。
さて公開中の秘仏、弁財天と羅刹天。いずれも小さな像で江戸時代のもの。――あれ、前に来た時にも見たような気もする。厨子の開扉は一月元日から十五日及び四月一日から五月三十一日と書いてある。この時期に来たことはない筈だが。平城遷都千三百年の時に特別公開でもしていたのだったろうか。いや、思い過ごしかもしれないけれど。
◆岩船寺 本堂

門前に置かれている石風呂はかつて僧侶が入山前に身を浄めたといわれる。一説にこれが寺号の由来となったともされるが、果たしてどうだろう。確かにどこにでもあるものではないが、名として採用するほど珍しいものとも思えない。
◆岩船寺 石風呂

この日は悪天候のため登らなかったのだが、寺の後方の御本陣山(貝吹山)の山頂付近に貝吹岩と称するものがある。最盛期には三十九もの寺坊が建ち並んでいたという岩船寺だが、全山の僧に合図を送る際にこの岩の上に立って法螺貝を吹いたと伝わる。
◆貝吹岩(夏に撮影)

この岩を見た時に直感した。これは磐座【いわくら】だと。そしてこの貝吹岩こそが「岩船」であり、岩船寺の名の由来だと確信した。
磐座とは神の降臨する場所、あるいは御神体そのものとされ、信仰の対象となった岩である。
岩船寺がこの地に建てられる以前、ここは磐座信仰の祭祀場だったのではなかろうか。古代からの聖域に新たに寺社を建立するというのは、殊更に実例を挙げるまでもなくままあることだ。
「イワフネ」というと大阪府交野市の磐船神社や同河南町の磐船大神社を即座に思い出す。どちらも船を思わせる巨石を磐座として祀る神社であり、「天磐船」に乗って天降った物部氏の神ニギハヤヒを奉祭する。
岩船寺の在する当尾【とうの】の地に物部氏の足跡は見当たらないし、ニギハヤヒを祀った場所だなどと言うつもりは勿論ないが、世俗化した南都仏教を厭う僧の隠遁の地となり、石仏の里と称されるこの当尾には、古い神の気配が確かに感じられるのである。
◆岩船寺 御朱印 「本尊阿弥陀如来」

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