聖徳太子御遺跡 第四番
向原山西琳寺
【こうげんざんさいりんじ】


所在地: 大阪府羽曳野市古市二丁目3-2

宗派: 高野山真言宗

御本尊:
薬師如来

創建: 欽明天皇二十年(AD559)

開基: 文首阿志高

別称/旧称: 古市寺 西林寺 向原寺

納経題字: 河内史帰仏之寺


◆西琳寺 西門
西琳寺 西門

『西琳寺文永注記』によると、河内国古市郡に根拠を置く渡来系氏族、西文【かわちのふみ】氏の阿志高【あしこ】が欽明天皇御宇の己卯年に建立し、丈六の金銅阿弥陀仏を安置したとある。己卯年は欽明帝治世二十年(559)にあたる。

 一方で『日本書紀』に我が国最初の仏教寺院として記される向原寺【むくはらでら】をその起源とするともいう。これは欽明天皇十三年(552)百済から献じられた金銅釈迦仏を蘇我稲目が「向原の家」に安置したというもので、奈良県明日香村豊浦の向原寺【こうげんじ】がその後裔とされている(向原寺は聖徳太子御遺跡霊場第十二番札所)。
 しかしそれと西琳寺がどう繋がるのかはよくわからない。ひょっとすると『西琳寺流記』にあるような「日本国最初之大伽藍」といった表現を「最初の寺院」と混同したのかもしれない。

◆西琳寺 本堂
西琳寺 本堂

 住宅地の中にひっそりと建つ現在の姿からは想像し難いが、往時には本格的な七堂伽藍を備えた大寺院だったようで、「日本国最初之大伽藍」もあながち大袈裟ではない。
 ただ、伽藍の配置や出土した屋根瓦の形式から七世紀前半の創建とするのが有力説となっている。己卯年の開創が正しいとするなら、欽明二十年から干支が一巡した年、すなわち六十年後の推古天皇二十七年(619)にあてるのが妥当ということになる。
 いずれにせよ日本仏教黎明期における大規模寺院のひとつであったことは確かだが、今では境内に置かれている巨大な塔心礎だけがかつての威容を偲ぶよすがだ。

◆西琳寺 塔心礎
西琳寺 塔心礎

 聖徳太子御遺跡霊場としての納経題字は「河内史帰仏之寺」。河内史は西文に同じ。聖徳太子の勧説により西文氏が仏教に帰依したという寺伝に因む。
 欽明の在世中にはまだ太子は生まれていないが、推古時代の創建ならこの伝承とも整合がとれる。

◆西琳寺 御朱印 「河内史歸仏之寺」
西琳寺 御朱印


参考文献:
◇『西琳寺文永注記』『西琳寺流記』(『続群書類従 第二十七輯 下』所収) 続群書類従完成会 1926


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