現在八尾市山本町と称ばれている地域は、かつて大和川の川床だった。大和川と幾筋もの支流はたびたび氾濫し、流域に甚大な被害を及ぼしていた。幕府への根気強い嘆願が実り、宝永元年(1704)ついに川違え(付け替え)工事がおこなわれた。付け替えはおよそ八ヶ月で完了し、新たに生まれた現山本町の土地は新田として整備された。開発を請け負った泉州箱作村の山中善兵衛・庄兵衛父子と大坂平野の商家加賀屋の本山弥右衛門から一字ずつを採って「山本新田」と名づけられた。 ...
世間もすなるSNSといふものを情弱もしてみむとてするなり
えっと、SNSはじめました。今まで縁がなかったというか、避けてきたというか、一切やってなかったんですが、やってみます。個人としてではなく、ブログとしてですけど。必要に駆られてLINEだけはやってます。個人で。ごくごく一部の人と。もちろん電話帳との同期はしてませんし、こちらの情報もclosedです。いやだって今は疎遠になってる名前も忘れてるようなどこかの誰かの電話に自分がLINEやってまーすなんて表示されてそれどころか友だちとしてこちらに許可もなく登録されるとか揚げ句の果てにその今は疎遠になってる名前も忘れてるようなどこかの誰かから突然メッセージが届くとか怖いし。怖すぎるし。 ...
忠岡神社〔泉北郡忠岡町忠岡中〕 日本で一番狭い町に伝わる源平合戦悲話
泉大津市と岸和田市に挟まれ細長い形をした忠岡町は、日本で最も面積の小さい町。かつては同じ大阪府の田尻町の方が小さかったが、関西国際空港建設による埋め立てで面積が増え、さらに愛知県の春日町が清須市と合併して消滅したため、平成二十一年(2009)十月に日本一となった。忠岡神社は忠岡町内で宗教法人として登録されている唯一の神社だ。 ...
感田神社〔貝塚市中〕 本願寺教団の本拠ともなった貝塚寺内町の産土神
戦国期に貝塚御坊こと金凉山真教院願泉寺を中心とする環濠都市として発展した貝塚寺内町。西に大阪湾を臨み、南北を北境川・清水川に挟まれ、東側には二つの川をつないだ濠を設け、土塁を三方に築いて防備を固めた南北約八百メートル、東西約五百五十メートルの要塞である。その中央を貫く中之町通り沿い、寺内町の南東の突端にあたる場所に感田神社が鎮座する。 ...
素盞嗚尊神社(江坂神社)〔吹田市江坂町〕 祇園信仰と小栗判官伝承
大阪府吹田市江坂町の素盞嗚尊神社、通称江坂神社は千里丘陵の南の端、大阪平野を見下ろす高台に鎮座する。江坂は昭和四十年代、大阪万博の開催によって急速に開発が進んだ地域だ。古くは「榎坂」と書いた。中世には「垂水西牧榎坂郷」と称し、奈良春日大社の荘園だった。社号の通り素盞嗚尊を祀るが、明治以前は素盞嗚尊の本地仏ともされる牛頭天王が祭神だった。 ...
河内西国巡礼 第六番 法雲寺〔堺市美原区今井〕 夢告によって掘り出された観音像と三千三百三十三体の本尊
承応三年(1654)明国の臨済僧隠元隆琦が我が国に伝えた黄檗禅は、浄土教の影響を受けた念仏禅を掲げ、明朝様式の伽藍と法式を受け継いだ独自色の強い宗派だ。旧丹南郡今井村(現堺市美原区今井)、西除川の東に大陸の匂いを感じる伽藍を構える大寶山法雲禅寺は、黄檗宗中本山格の名刹。法雲寺の前身は弘法大師開山を伝える神福山長安寺という真言宗寺院だったが、元和六年(1620)狭山池の堤防決壊による西除川氾濫で堂宇を流失した。 ...
河内西国巡礼 第五番 大林寺〔松原市北新町〕 髑髏の赤い舌は法華経を誦え続ける
天野山を発して北へ流れる西除川は、大和川と合流する手前付近を特に布忍川(布瀬川)とも称ぶ。その布忍川の東の畔、かつての丹北郡向井村に小さな寺院がある。河内西国第五番札所の布忍山大林寺だ。明治初年に廃寺となった融通念佛宗念仏寺の跡地に、八上郡大饗村(現堺市美原区大饗)にあったがやはり廃寺となっていた大林寺の寺籍を譲り受けて新たにこの寺が建立されたのは明治十一年(1878)のこと。 ...
青賀原神社〔河内長野市下里町〕 弘法大師の九頭龍調伏伝説と丹生明神信仰
空海阿闍梨は河州錦部郡天野谷を南へ向かって歩いていた。唐で密教の全てを学んで二年余り前に帰国したものの、二十年と定められた留学を二年で切り上げて勝手に帰って来たため、大宰府での足留めを余儀なくされた。そしてこの大同四年、許しを得てやっと畿内に戻ることができたのだった。 ...
生國魂神社〔大阪市天王寺区生玉町〕 丙申歳干支朱印拝受|天下を獲った猿
謹賀新年。恒例のいくたまさんの干支朱印を受けてきた。今年は丙申。生國魂神社が豊臣秀吉の大坂城築城のために現在地に遷座したのは天正十三年(1585)。秀吉は三百石の土地を寄進して社殿を新造した。秀吉といえば四百八十年前、今年と同じ丙申の歳である天文五年(1536)一月一日に生まれたという説がある。しかしそれは「猿」に似た容貌だったといわれる秀吉を申歳生まれとした後世の創作とされ、実際には天文六年(1537)二月六日の酉歳生まれらしい。 ...
葉室小宮〔南河内郡太子町葉室〕 西国三十三度行者の拠点寺院址
大阪府太子町の葉室の集落を歩いていると、民家の屋根の向こうにこんもりと林が頭をのぞかせているのが見える。寺社参りが好きな人なら「ひょっとして神社があるかも」ときっと考える佇まい。そしてやはりそこには神が祀られていた。江戸期に河内国石川郡葉室村の庄屋を勤めた池田家の第十六代当主・清左衛門(藤兵衛)が、伊勢神宮に三十三度参拝したことを記念して元文二年(1737)九月に私有地内に祀ったものという。 ...
陽の当たる巡礼道 (On the Sunny Side of the Pilgrimage Route)
河内国石川郡の石川三十三所を徒歩巡礼してみたくなって、まずは一番佛眼寺から南林寺・西方院を経て二番叡福寺まで歩いた。一年で最も太陽の出ている時間が短いという冬至の今日、昼下がりの空は晴れ渡るとまではいかないものの、雲が途切れるとやわらかな陽が降り注いでひなたはぽかぽかと暖かい。 ...
近江神宮〔大津市神宮町〕 僅か五年で滅んだ幻の都近江京〈後編〉
かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを 額田王 天智天皇十年(671)十二月三日、天智天皇は近江大津宮にて崩御した。こうなるとわかっていたなら、大君の御船が停泊する港に標縄を張って旅立たれないようにしたものを――。額田王はこう詠って天皇への哀惜の思いを表現した。 ...