生國魂神社の境内末社のひとつに鴫野神社がある。祭神は市寸島比賣神と大宮賣神、そして淀姫神。元は大坂城の北東、鴫野村の弁天島という川の中州に祀られていた。弁天島は今「大阪ビジネスパーク(OBP)」と称ばれている辺り。弁天社は片町橋南詰東側の竹藪の中にあった。女性の心願成就、縁結びや悪縁切りに霊験あらたかと評判が高く、巳の日にはお参りする人が群れをなしたと伝わる。 ...

海石榴市は現在の桜井市金屋付近にあった我が国最古といわれる市場で、奈良の都へ続く山の辺の道、飛鳥へ通じる磐余の道、大和と伊勢を結ぶ初瀬街道、二上山へと延び竹内街道につながる横大路といった幹線道路が交錯し、大和盆地を横断して河内に注ぐ大和川水運の終着点でもあり、「海柘榴市の八十の衢」と万葉歌に詠われた交通の要衝だった。 ...

旧和泉国大鳥郡上石津村の産土神である石津神社は、小栗判官が土車に乗って熊野を目指したという小栗街道沿いに社地を構えている。最古の戎神社と称するこの神社の創祀伝承は遥か神代に遡る。 恵美酒大神がこの地に降臨し、携えて来た五色の石を置いたのが始まりで、その故事により「石津」の地名が生まれたという。その後、第五代孝昭天皇七年(BC469)八月十日に、勅によって恵美酒大神を奉祭する社殿が建てられた。 ...

三韓征伐を終えて帰国する神功皇后の船団最後尾の船がこの地の海岸に着いたことからその名があるという和泉国大鳥郡船尾村は、明治二十二年(1889)に下石津村・下村と合併して浜寺村大字船尾となる。一村一社の原則を掲げる神社合祀令が出されたのは明治三十九年(1906)のこと。これにより大阪府の神社数は三割近くに減ったという。船尾には村社諏訪神社と無格社八幡神社があったが、明治四十年(1907)十二月十日、ともに下石津の石津太神社に合祀された。 ...

神代の昔。伊弉諾命と伊弉册命の間に生まれた蛭子命は、三歳になっても立つことができなかったため、天磐樟船に乗せて海に流された。船は波のまにまに風のまにまに漂い、ある海岸に流れ着いた。蛭子命が携えて来た五色の神石を置いたことから、その地を石津と称し、船の漂着した所を石津の磐山というようになった。それから遥かに時を経て、五代孝昭天皇の御代、蛭子命を祀る社殿を建てたのが石津太神社の始まりだという。我が国最古の戎社と称している。 ...

和泉葛城山上に鎮座する八大龍王社(高龗神社/葛城神社)についての諸事を記した『葛城峯宝仙山萬覚帳』に、同社の縁起が次のように書かれている。ある時、弘法大師と「しるびん大師」が法力対決を行った。しるびん大師が降雨を司る諸龍神を「摩訶」の二字を以て縛ったため、日本中が百日にわたる大旱魃に見舞われた。対する弘法大師は「般若波羅密多」と誦えて海の龍王に祈請した。すると八大龍王が泉州脇浜浦の、今では龍王島と称する所に出現した。 ...

南北に長い岸和田市のほぼ中央に位置する神於山は標高およそ三百メートルの独立峰で、古来、その名の示す通り神の山として崇拝されてきた神体山、神奈備だった。神於山を囲むように多くの神社が分布している。また中世には南麓に神於寺が栄え、最盛期には百八坊が建ち並ぶ大伽藍を誇ったという。神於山は常に信仰の中心として屹立してきた。 ...

桂離宮や伊勢神宮を絶賛したことで知られるドイツの建築家ブルーノ・タウト。彼はナチス政権下のドイツを離れて日本に亡命した昭和八年(1933)から同十一年(1936)の間に、奈良を二度訪れている。冒頭の引用は遺稿をまとめた著書『忘れられた日本』に収録されている、『奈良』と題した随筆の一節。奈良という古都の真の美しさはガイドブックに載っているような有名な大社寺にあるのではなく、十輪院や新薬師寺といった小寺院、更に言えば何でもない小径や土塀や石畳や植込などの素朴で自然的な美にこそ、その真骨頂があるのだと述べる。 ...

南都七大寺のひとつに数えられる元興寺の歴史は飛鳥の地に始まる。用明天皇二年(587)。仏教公伝から五十年近くが経っていたが、未だ本格的な仏教施設は存在していなかった。天皇は、大寺院を建てて百済より僧を招来せんと欲し、それに相応しい土地を探すよう聖徳太子らに命じた。翌崇峻天皇元年(588)、百済僧が仏舎利を携え、技術者とともに海を渡って来た。 ...

二上山は死の山だ。大和の太陽は三輪山から昇り、二上山に沈む。二上山の向こう、河内の磯長谷は「王陵の谷」とも称ばれ、多くの貴人の陵墓が密集する葬送地であり、二上山はその象徴として墓標のように聳える。山頂近くには悲劇の最期を遂げた大津皇子の墓が幽寂と佇む。仏教が伝来すると、阿弥陀如来のおわす西方浄土への信仰と結びつき、気高き中将姫の伝説も生まれた。その懐に抱かれる當麻の里は、生と死のあわいにある鎮魂の地。 ...

大和国葛下郡下田村(現奈良県香芝市)は古くから交通の要衝として栄えた。河内から国分峠を越え初瀬(長谷)を経て伊勢へ到る伊勢街道と、王寺から南に延びる當麻寺参詣道が下田の地で交わる。現代においても、国道一六五号線と一六八号線の交差点として交通量の多い場所だ。その下田交差点に鎮座するのが、平安末期の勧請伝承を持つ鹿島神社。 ...

『古事記』を編纂した太安萬侶の出身地といわれる多の地でその御魂を祀る小杜神社を後にし、大和盆地を北上する。奈良市街を抜け、林道を東へ。程なくしてのどかな田園風景が現れる。水田と茶畑が広がる静かな山里、田原。田原地区のうち、旧此瀬村の鎮守天神社を訪ねる。道を逸れて斜面を上ると砂利を敷き詰めた平坦地になっており、右手に公民館がある。公民館の建つ場所にはかつて阿弥陀如来を祀る惣堂があって、村の寄合所となっていた。称び名が公民館と変わっただけで、その役割は昔も今も同じ。 ...