聖徳太子御遺跡 第二番
神妙椋樹山大聖勝軍寺
【しんみょうりょうじゅざんたいせいしょうぐんじ】


所在地: 大阪府八尾市太子堂三丁目3-16

宗派: 高野山真言宗

御本尊:
如意輪観世音菩薩
聖徳太子(植髪太子)

創建: 用明天皇二年(AD587)

開基: 聖徳太子

寺格等: 河内三太子

別称/旧称: 下之太子 太子堂 願成就寺 椋の木寺 大聖勝軍鎮護国家寺 金光寺

納経題字: 下之太子


◆大聖勝軍寺 太子殿と新太子殿(背後)
大聖勝軍寺 太子殿と新太子殿

 古来「下之太子」と称ばれ、「上之太子」叡福寺、「中之太子」野中寺とともに河内三太子に数えられる聖徳太子ゆかりの古刹。
 この寺のある辺りはかつての渋川郡跡部郷で、物部守屋の別邸があったといわれる地域である。仏教を積極的に取り入れようとする蘇我氏(崇仏派)とそれに反対する物部氏(排仏派)との戦いがこの地で繰り広げられた。
 蘇我方で参戦していた厩戸皇子(聖徳太子)は当時十六歳。太子が敵軍に追われこの場所まで来たとき、ムクの木の幹がひとりでに裂け、太子はその中に身を隠して危機を脱することができたという。山号はその故事から採られた。

◆大聖勝軍寺 神妙椋樹 中に太子像
大聖勝軍寺 神妙椋樹

 太子はそのムクの木で自身の像を彫り、自らの髪を切って像に植えた。さらにムクを取り囲むように生えるヌルデの木で四天王像を刻み、勝利を祈願した。その際、部下四将軍をモデルにしたともいう。すなわち持国天=蘇我馬子【そがのうまこ】、多聞天=秦河勝【はたのかわかつ】、広目天=迹見赤檮【とみのいちい】、増長天=小野妹子【おののいもこ】。
 因みに史実では蘇我馬子は崇仏派の総指揮官であって太子の部下ではないし、また遣隋使として有名な小野妹子がこの戦いに加わっていたというのは他では聞かない。

◆大聖勝軍寺 門前の聖徳太子像と四天王像
大聖勝軍寺 聖徳太子像と四天王像

 戦は崇仏派の勝利に終わり、太子は戦場の跡に仏堂を建てて自身の植髪像と四天王像を祀った。それが大聖勝軍寺創建の縁起である。
 現在、太子殿に如意輪観音、その背後に建つ鉄筋の新太子殿には植髪太子像と四天王像を安置する。

 大聖勝軍寺の周辺には守屋にまつわる史跡が点在する。
寺の東には守屋の墳墓があって綺麗に整備されている。蕃神のはびこるのを阻止して神祇崇拝を守ろうとした守屋は神道界の英雄であるだけに、巡らされた玉垣には各地の錚錚たる有名神社の名が刻まれている。

◆物部守屋墓
物部守屋墓

 守屋は迹見赤檮の矢によって斃されるが、この時矢を放った場所とされるのが弓代塚。そこに弓を埋めたのだという。
 さらに守屋を射抜いた矢が落ちた場所が鏑矢塚で、その矢が埋まっているのだという。
 そして射落とされた守屋に駆け寄りその首を掻き斬ったのが秦河勝で、首を洗ったと称する池が大聖勝軍寺の山門前にある。今は涸れている。

◆弓代塚
弓代塚

◆鏑矢塚
鏑矢塚

◆大聖勝軍寺 門前の守屋池
大聖勝軍寺 守屋池

 崇仏派と排仏派による宗教戦争として認識されるこの丁未の乱だが、実質は泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子との皇位継承争いであり、両皇子をそれぞれ推す馬子と守屋との権力闘争であった。
 大聖勝軍寺の北東数百メートルに物部氏の氏寺だったといわれる渋川廃寺址があり、少なくとも物部守屋が「神道原理主義者」だったというのは事実に反するようだ。




参考文献:
◇『やすらぎの古里 河内西国巡礼 こころの散策ガイド』 河内西国霊場会 2003


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「物部氏」とは何者だったのか?
大和朝廷で軍事的な職掌を担っていたとされる物部氏。しかし、その一族の実像は茫漠として、いまだ多くの謎に包まれている。記紀の伝承や物部氏の系譜を丹念にたどり、朝鮮語を手がかりに解読を試みると、そこには思いがけぬ真実の姿が浮かび上がってきた。既存の古代史観に疑問を投げかけ、作り上げられた物部氏の虚像を看破する著者独自の論考。

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