大圓寺の寺歴


 大阪市教育委員会による企画「大阪の歴史再発見」の一環として、大阪市内の寺院の非公開文化財が不定期で特別公開されている。去る平成三十年(2018)一月二十三日、住吉区墨江の大圓寺で本尊阿弥陀如来立像をはじめとする仏像群が公開されていたので参加して来た。

大圓寺 山門

大圓寺 山門




鏡智山大圓寺
【きょうちざんだいえんじ】
所在地:大阪府大阪市住吉区墨江三丁目玉水17-8
宗派:浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
創建:元和五年(AD1619)
開山:松蓮社長誉寿岳上人
別称/旧称:鏡親山大圓寺


 鏡智山大圓寺は浄土宗知恩院の末寺として、長誉上人によって開かれた。創建年は元和五年(1619)と伝わるが、『東成郡誌』は元和元年(1615)とする。
『摂陽群談』には大圓寺について「本尊安阿弥手造の弥陀 立像三尺五寸 を安置せり」とある。安阿弥(安阿弥陀仏)とは鎌倉時代を代表する名仏師快慶のこと。仏像の作者に擬せられる著名な仏師や高僧が実際の作者であることは稀だが、大圓寺の本尊には快慶の記銘があり、伝承が事実であることが証明されている。
 江戸時代初期開創の大圓寺に快慶作の仏像が伝わった経緯は不明だが、住吉の地は古くから住吉大社を中心として多くの寺社が建ち並ぶ宗教都市の様相を呈しており、造像当初からこの地に祀られていたことも十分に考えられる。
 快慶は治承四年(1180)の兵火で大打撃を受けた南都寺院の復興造仏に携わったが、東大寺大勧進職にあった俊乗房重源と特につながりが深く、重源関係の多くの造仏を担当している。「安阿弥陀仏」の名も重源から授けられたものとみられる。
 重源は勧進活動の拠点として各地に別所を設置したが、旧淀川河口の渡辺津わたなべのつにも渡辺別所が設けられ、丈六阿弥陀如来を本尊とする浄土堂が建てられていた。播磨別所の阿弥陀三尊像、伊賀別所の頭部のみが残る阿弥陀像(頭部以外が補作され廬舎那仏となっている)は快慶の作であることが判明しており、渡辺別所の阿弥陀像は現存せず詳細は不明であるものの、快慶が関与した可能性はある。渡辺別所は瀬戸内海の海運の要衝であるだけでなく、上町台地上を縦断して高野山や熊野へと続く街道の拠点でもあり、住吉はその途上にあたる。快慶と大坂・住吉を結ぶ接点がその辺りにあるかもしれない。

大圓寺

大圓寺



 大圓寺の山門をくぐると、正面に近代的で立派な本堂。前庭には地蔵菩薩や涅槃仏、慈母観音、仏足石など。 

大圓寺

大圓寺



 また、門前には冨貴地蔵尊を祀る地蔵堂がある。天保年間(1830~1844)に芥子久兵衛という人が畑を耕しているときに地蔵の石像を発見、持ち帰って自宅の門前に安置したものという。のちに大圓寺の門前に移設された。

大圓寺門前の冨貴地蔵堂

大圓寺門前の冨貴地蔵堂




快慶の阿弥陀仏


 大圓寺の本尊である木造阿弥陀如来立像は、観音菩薩・勢至菩薩の両脇侍を伴う三尊像として本堂須弥壇上に安置されている。
 像高は約八十三センチメートル。来迎印を結び、左足をわずかに前に踏み出して、蓮台上に立つ。肉身部は黒漆の上に金泥で彩色を施し、衣部は漆箔で仕上げられている。右手第二指の先、左手袖口の先、螺髪の一部が欠失している。
 右足ほぞ外側に「巧匠 法橋快慶 アン(梵字)」の墨書が記されている。快慶銘の他例との比較から、明らかに快慶の自筆であり、快慶が法橋の僧位にあった時代の造像であることがわかる。快慶が法橋位を得たのが建仁三年(1203)十一月であり、法眼叙任は承元四年(1210)七月以前であることから、その間に造られたことになる。法橋時代の作例として知られているものは、他に「巧匠法橋快慶」(梵字なし)銘の東大寺公慶堂の地蔵菩薩立像のみ。無位時代の銘「アン(梵字)阿弥陀仏」から、本像の記銘方式を経て、公慶堂地蔵菩薩の梵字のない銘に至るという時系列が推測される。
 また、快慶の阿弥陀如来立像の衣の表現について、《両胸にたるみを設けない》→《右胸前にのみたるみを設ける》→《両胸にたるみを設ける》という形式の変遷が指摘されており、本像は右胸前にのみ衣のたるみを設ける第二段階の形式をとる。第一段階の形式を示す興善寺(奈良市十輪院畑町)の阿弥陀如来立像(銘はないが快慶作と伝わる)が元久元年(1204)から同二年(1205)の造像と考えられることから、造像時期がさらに絞り込まれる可能性がある。



 脇侍の観音菩薩坐像・勢至菩薩坐像は江戸時代前期のものと推定される。一具の像と考えられるが、衣の表現に意識的に変化がつけられているのが特色(脇侍像は左右で同じ様式に造るのが通例)。頭部背面にも丁寧に毛筋を彫り込んでいる点や、衣摺の複雑な処理など、作者の優れた技量が窺える。

 普段は本堂二階に安置されている木造阿弥陀如来坐像も、この日は本尊の前に展示されていた。摩滅がある程度進んでいる頭部に対して、体部はそれほどでもないことから、首から上と下で製作年代が異なると考えられる。右臂先などは江戸時代の後補、胴体根幹部はそれより古いと思われる。頭部はさらにさかのぼり、中世以前の可能性もある。
 その隣の地蔵菩薩立像は室町時代末から江戸時代前期の作。白土で彩色された肉身と、金泥・群青・朱で描いた衣部の緻密な文様が印象的な美しい像。

大圓寺 本堂

大圓寺 本堂



 住吉を含む上町台地は、浄土信仰の地だったという。
 今も残る「夕陽丘」の地名が物語るように、古人は、大阪湾に沈む夕陽に遥かな西方極楽浄土を観想した。四天王寺の西門(極楽門)は浄土への入口とされたし、住吉の北に位置する帝塚山も「日想観」の聖地だった。
 大圓寺は江戸時代前期に浄土教の拠点として信仰を集めたが、同寺に受け継がれた、自身熱烈な阿弥陀信仰者だったという快慶の手になる古仏は、浄土信仰がずっと古くから住吉の地に根づいていたことを今に伝えている。

大圓寺 御朱印 「本尊 快慶作 南無阿弥陀佛」

大圓寺 御朱印 「本尊 快慶作 南無阿弥陀佛」




参考文献:
◇岡田徯志『摂陽群談』(大日本地誌大系 第九冊) 大日本地誌大系刊行会 1916
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇根立研介『ほとけを造った人びと 止利仏師から運慶・快慶まで』 吉川弘文館 2013
◇『密教関係の仏教美術の保存と活用事業調査報告書 大圓寺の仏像について』 大阪密教美術保存会 2018


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