池之原神社 石段と二の鳥居

池之原神社 石段と二の鳥居




池之原神社の神域


 四天王寺を起点として南にのびる下高野街道は、狭山池にぶつかって二つに分岐する。池の東側へ回り込めば中高野街道に合流し、西の道をとると岩室を経て西高野街道に合流する。また岩室で西高野街道から分岐する天野街道を進めば、女人高野といわれた天野山金剛寺に至る。
 これら主要な交通路の集まる河内国丹南郡岩室村には、産土神として熊野権現が祀られていた。今は池之原神社と称ばれている。

池之原神社 一の鳥居

池之原神社 一の鳥居



 国道三一〇号池の原交差点を西へ向かうと間もなく、道は正面の山を避けるようにY字に分岐する。この山が池之原神社の境内だ。
 さほど古くない石鳥居をくぐり、石段の先の朱の鳥居を見上げると、ちょうど太陽が雲の切れ間から顔を覗かせ、神域を明るく照らし出した。

池之原神社 二の鳥居と拝殿

池之原神社 二の鳥居と拝殿



 朱の鳥居を抜けると広場になっていて、右手に社務所があり、さらに上がったところに独特な外観の拝殿。
 賽銭箱の前で手を合わせたあと、拝殿の後ろに回り込み本殿の前に立つ。
 本殿は三社造。朱の格子戸が印象的。
 三社にはそれぞれ神紋が掲げられている。中央は丸に金の文字。左殿(向かって右)は三つ巴。そして右殿が梅花紋。境内に神名を記した札や案内板の類は見当たらず、この紋だけが祭神を知る手掛かりのようだ。

池之原神社 本殿

池之原神社 本殿




岩室と池之原


 河内国丹南郡岩室村は現在の大阪狭山市池之原及び同市岩室にあたる。
 すぐ東には狭山池があるが、狭山池より標高が高いためにその水を利用することができなかった。だから多くの溜池が築かれた。水に不便な上に土地が砂礫を多く含むため稲作には不向きで、木綿やたばこ、琉球芋(サツマイモ)の生産が主だった。



 万治元年(1658)に村名を岩室村から池ノ原村に改め、寛文九年(1669)再び岩室村に戻したという。一村ながら、東側の池之原地区と西側の岩室地区は文化的には隔絶していて、実質は別の村と言って良かった。
 西には和泉国大鳥郡岩室村(現堺市南区岩室)という同名の村が隣接しており、国を異にしながら、岩室地区はむしろこちらと関係が深かった。河内岩室村の鎮守として熊野神社(現在の池之原神社)があるにもかかわらず、岩室地区の住人は和泉岩室村の観音院を檀那寺とし、その境内にある熊野神社を鎮守社として祭祀していた。
 国境線の変動があったか、あるいは和泉岩室村の生活圏が河内側に拡大した結果、二つの岩室村が存在することになったものと推測される。

池之原神社 拝殿

池之原神社 拝殿



 池之原地区は室町時代に開かれたといわれる。
 伝承によると、「五林」と称する林の字のついた五家が和泉岩室から移って来て池之原を開拓したという。
 また、近江国から高野詣でをした人たちが岩室と山本の境辺りの「七屋敷」というところに居つき、のちにこの七家が池之原に下りて来て開発したという別の伝承もある。


熊野三所権現宮


 現在池之原神社の鎮座する宮山には、熊野三所権現を祀る熊野神社があった。創建は文明十八年(1486)と伝わる。池之原の開拓とともに鎮守として勧請されたものと推測される。
 熊野権現が祀られたのは、やはり街道の中継地点という土地柄ゆえだろう。西高野街道や天野街道は高野山へと続き、そこからさらに小辺路を経て熊野へとつながっている。祭神は街道を通ってもたらされたものに違いない。

 池之原神社に隣接する金玉山西福寺(高野山真言宗)はかつての熊野神社の神宮寺で、天正十六年(1588)に活土なる禅僧によって庵が結ばれたのを始まりとするという。記録によれば承応元年(1652)の熊野三所権現宮建立(修復または再建か)の際に社僧が置かれたとある。明暦元年(1655)には僧雄尊が入っており、この時を中興としている。寛文十二年(1672)に本尊阿弥陀如来が開眼され、同時に西福寺という寺号を公称。のち宝永八年(1711)頃に山号を金玉山とし、僧源海によって禅宗から真言宗に転じた。

西福寺

西福寺



 熊野神社は明治四十二年(1909)に今熊の三都神社に合祀されているが、社地はその後も残されていたらしい。そして昭和五十三年(1978)に至り、神社が復興される。それが現在の池之原神社だ。

 ところで、熊野神社合祀の際、池之原にあった他の三つの神社も同時に合祀された。すなわち、熊野神社背後の愛宕山に鎮座していた愛宕神社、地区内最大の溜池濁り池の中島に祀られていた厳島神社、長谷池の南の笹塚山にあった琴平神社の三社。


池之原神社の祭神


 ここで池之原神社本殿に掲げられた神紋の話に戻る。
 中殿の紋は丸に金、左殿は三つ巴、右殿は梅花。これらから、池之原神社に祀られている神を考察してみる。
 まず、丸に金は簡単だ。讃岐象頭山に鎮まる金毘羅権現の神紋。明治の神仏分離によって、金毘羅権現を祀る神社の多くは祭神を大物主に変更している。これは笹塚山にあった琴平神社ではないだろうか。明治の神社明細によれば琴平神社の祭神は大物主命【おおものぬしのみこと】・火結神【ほむすびのかみ】・大年神【おおとしのかみ】。格子戸越しに覗いた中殿内に三つの社が置かれていたのがそれを裏付ける。中央の大きな社が大物主命、左右の小さな社が火結神と大年神ではないか。
 次に三つ巴紋だが、これは難しい。何しろ「神社といえば三つ巴」というくらい、この紋を採用する神社は多い。ただ、池之原神社の前身は熊野神社であったのだから、熊野権現が祭神の一柱になっていると考えるのが自然。熊野権現も三つ巴を神紋としている。熊野神社の伊弉奈美命【いざなみのみこと】が左殿に祀られているのだろう(熊野那智大社の熊野夫須美大神【くまのふすみのおおかみ】はイザナミと同一とされる)。
 最後に梅花紋。梅といえば菅原道真だが、池之原にかつて祀られていた神のうち、残るは愛宕神社の火雷神【ほのいかづちのかみ】と厳島神社の市杵島姫命【いちきしまひめのみこと】。そのどちらかが右殿の神だとすると、一体どちらか。考えていると、菅原道真が「火雷天神」とも称ばれたことに思い至る。落雷などが相次いだのを道真の祟りだとして、それを鎮めるべく創建されたのが北野天満宮だが、その地主神が火雷神であったため、両者が結びついたことによる名だ。ひょっとすると、池之原の愛宕神社では火雷神が道真(天神)と混同され、梅花紋が使われていたのかもしれない。少し強引ではあるが、右殿は火雷神としておく。ただし、明治十年(1877)の記録に熊野神社の末社として「菅原太神」があったことが記されており、これが右殿に祀られている可能性もないではないのだが。

池之原神社 本殿

池之原神社 本殿



 本殿後方の末社殿には戎大神と高森大神が祀られている。
 高森大神がどういった性格の神かは不明なのだが、社殿内部を覗くと宝珠に巻きつく白蛇が祀られていた。これは弁才天、特に宇賀弁才天のシンボルであり、弁才天は市杵島姫と同体とされるから、ひょっとすると濁り池にあった厳島神社がここに祀られているのかもしれない。

池之原神社末社 戎大神と高森大神

池之原神社末社 戎大神と高森大神



池之原神社
【いけのはらじんじゃ】
所在地:大阪府大阪狭山市池之原四丁目宮山681
御祭神:大物主命【おおものぬしのみこと】(中殿)
伊弉奈美命【いざなみのみこと】(左殿)
火雷神【ほのいかづちのかみ】(右殿)
火結神【ほむすびのかみ】(中殿配祀)
大年神【おおとしのかみ】(中殿配祀)
創建:文明十八年(AD1486)
社格等:旧村社
別称/旧称:熊野神社 熊野三所権現宮


 池之原は信心深い人が多かった土地のようだ。
 多くの神社が祀られていたこと、そしてそれらが隣町の神社に合祀されてしまった後も産土神の神域を守り、時を経て神社を復興したことがそれを物語る。
 また、西国三十三度行者と称する巡礼者が立ち寄る「宿」が池之原・岩室に多くあったことが記録に残っている。村人たちは行者を「カンノンサン」などと称んで手厚くもてなしたという。



 それら信仰心篤い人たちのおかげで、明治の宗教界に吹き荒れた嵐を乗り越えて今も神社が大切に守られていて、こうして参拝することができる。信心などかけらも持ち合わせていない私だけど、そういう人たちに畏敬と感謝の思いを抱く。


参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇狭山町史編纂委員会(編)『狭山町史 第一巻 本文編』 狭山町役場 1967
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇大阪狭山市史編さん委員会ほか(編)『大阪狭山市 第九巻 民俗編』 大阪狭山市役所 1997
◇大阪狭山市史編さん委員会ほか(編)『大阪狭山市史 第12巻 地名編』 大阪狭山市役所 2000
◇大阪狭山市史編さん委員会ほか(編)『大阪狭山市 第七巻 別巻 石造物編』 大阪狭山市役所 2006


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